[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝(115) 小林邦昭

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

私的プロレススーパースター烈伝(115) 小林邦昭

 長野県小諸市生まれ

今回は新日本プロレスで初代タイガーマスクのライバルとして活躍し「虎ハンター」の異名を取った元プロレスラー小林邦昭さんのお話です。

小林邦昭さんは、1956年1月11日に長野県小諸市で生まれました。

 初代タイガーとの抗争

1972年に新日本プロレスに入門し、翌年の1973年に栗栖正伸さんを相手にプロデビューを果たしました。

その後、メキシコやアメリカでの武者修行を経て、1982年に凱旋帰国し、初代タイガーマスク選手との抗争で一躍有名になりました。

 虎ハンター

小林さんの現役時代は、初代タイガーマスク選手とのライバル関係が特に有名です。

小林さんにはいつしか「虎ハンター」の異名がつき、タイガーマスクの覆面を剥ぐことを目的としたヒールファイトで観客を魅了しました。

 ジャパンプロレスへ

1984年には長州力さんやマサ斎藤さんらと共に新日本プロレスを離れ、ジャパンプロレスに参加し、全日本プロレスにも参戦しました。

全日本プロレスでは、二代目タイガーマスク選手との抗争でも活躍しました。また1986年11月23日にはヒロ斎藤さんを下して世界ジュニアヘビー級王座を獲得しています。

 反選手会同盟

1987年に新日本プロレスに復帰し、同年8月には第4代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得しました。

その後、1991年には誠心会館との異種格闘技戦で最前線に立ち、反選手会同盟を結成しました。そこから平成維震軍としてWARとの抗争でも活躍しました。

 後進の育成に尽力

しかし、この頃からがんとの闘病生活がはじまり、2000年4月21日、獣神サンダー・ライガー選手との試合を最後に現役を引退しました。

引退後、小林さんは新日本プロレス道場の管理人として後進の育成に尽力しました。

闘病生活が 

小林さんは1992年に大腸がんが発覚し、約半年の休養とリハビリを経て1993年に復帰しました。

その後、1999年にはがんが肝臓に転移し、肝臓の切除手術を受けましたが、引退後もがんが肺に転移するなど、度重なる闘病生活を送りましたが、抗がん剤治療を続けながらも新日本プロレスでの活動を続けました。

 病状は伏せられ

しかし、2024年2月の段階で小林さんは膵臓がんを患っており、病気についてはごく一部の人以外には伏せられていました。

新日本退団後も親交があり、自身も食道がんと闘病している西村修選手が、新日本のトレーナーである三澤威さんらとともに、自宅で闘病していた小林さんの元を訪れて見舞ったそうです。

 68歳没

ベッドで別人のようにやせ細り、食事もとれない状態でしたが小林さんは上半身を起こした状態で気丈に振舞ったそうです。しかし2024年9月9日、がんのため68歳でお亡くなりになられました。

小林さんのレスラー時代には多くのエピソードがあります。

 多くのタイトルを

特に初代タイガーマスクとの抗争は有名で、試合ごとにタイガーのマスクを剥ぐ悪党殺法で「虎ハンター」として大きな注目を浴びました。

1985年にはダイナマイト・キッドを破りNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得するなど、多くのタイトルを手にしました。

 温厚で親しみやすい

小林さんはリング上では「虎ハンター」として恐れられましたが、私生活では非常に温厚で親しみやすい人柄でした。

初代タイガーマスクの佐山聡さんとはプライベートでも仲が良く、佐山さんに対して感謝の念を表明していました。

 16歳で入門

また、後進の育成にも熱心で、多くの若手レスラーから慕われていました。

小林さんは16歳で新日本プロレス入りしており、23才で入門した藤原組長よりも1週間、22才で入門した長州力さんよりも1年先輩にあたります。

 大食いエピソード

若手時代、新大阪駅 – 東京駅を移動中の新幹線で、山本小鉄さんの「俺が奢るから、何でも好きなだけ食え」との言葉に、「本当に何でも食っていいんですね?」と答えて、ビュッフェにあるメニュー全種類を食べたという大食いエピソードは有名な話です。

新日本に入ったのも、あまりの大食いにあきれた母親から「そんなに食べたいならプロレスラーにでもなれ!」と言われたことがきっかけになったそうです。

 作る方でも拘り

小林さんは食べるだけでなく、作る方でも食への拘りがあって、先ほどお話ししたように道場で料理の腕をふるっていました。

道場の台所の壁に描かれてある野菜や花・動物のイラストは小林さんが描いたものであり、ハードな練習に明け暮れている若手を和ませていました。

 長州さんとの仲

長州力さんとの仲の良さは有名であり、「力ちゃんが結婚するまで俺も結婚しない」と約束したエピソードが何度もプロレス雑誌で紹介されていました。

長州さんは「サンペイちゃん」のニックネームで小林さんを呼んでいました。

 あだ名の名付け親

この名付け親は、新日本が旗揚げした72年当時、参戦していた豊登さんだったそうです。

「豊登さんが歌舞伎か時代劇に出ている『三平』っていう役者か役名か忘れましたが、それに似ているっていうので付けたはずです。落語家の『林家三平』さんが由来じゃないんです」と藤波さんが後に秘話を明かしています。

ちなみに上田馬之助やアントニオ猪木の命名者も豊登さんで、中には明らかにおかしなリングネームもありましたが、こうした二つ名が定着してその人の個性になっていったのは面白いですね。

 女子力が高い

小林さんはインターネットを趣味としており、ブログ・SNSを活用して、様々な情報を発信されていました。

こうしたSNSでの投稿や新日本プロレス道場の様子を紹介するテレビ番組に管理人としてしばしば登場し、細やかな配慮や料理の上手さ、猫をかわいがる様子から「女子力が高い」という評価を受けることが多かったですね。

 アメブロで

もう40年以上も前になりますが、大学時代の友人が街で小林邦昭さんにあったという話をしてくれたことがありました。ちょうど色紙もなかったので、プロレスの半券を出して裏側にサインをしていただいたそうですが、イヤな顔ひとつしなかったそうです。

かつて私はアメブロをやられていた小林さんの投稿を楽しみにしておりました。

そんな折、小林さんが真壁選手について記事を書かれていました。

 丁寧なお返事

ちょうどその時東京に行った際「真壁選手はチェーンに頼らなかったら、もっと伸びる」とグレート・カブキさんから直接お話を伺っていたので、そのことをコメントすると、小林さん本人から丁寧なレスが返ってきたのです。

「さすがはカブキさんですね」と感心されていたのを今でも思い出します。そこから何度かコメントを書かせていただき、そのたびにお返事を返していただける律儀な方でした。

 茶目っ気も

棚橋選手が仮面ライダー好きなことを書くと「彼は忙しい人だから、そういうのは見ていないんじゃないのかな?」と書かれていましたが、これは多分小林さんの茶目っ気だったのかもしれません。

以前からあれだけ仮面ライダー愛を公言している棚橋選手ですから、知らないはずがないと私は今でも思っています。

 小鉄さんのエピソード

小林さんの試合を始めて見たときの対戦相手はスーパーヘビー級のビッグ・ジョン・クイン選手でしたが、そのことをコメントしたら「当時はジュニアでもスーパーヘビー級と当たるのは当たり前でした」とお返事を頂きました。

小林さんのブログで印象深かったのは、なくなる前の山本小鉄さんが道場でトレーニングされている写真をUPして、「今でも特別な練習をしたら、一試合くらいは臨時でリングに上がれる」と書かれていたことです。

 三団体のレシピ

残念ながら程なくして小鉄さんはお亡くなりになってしまわれたのですが、終生道場で汗を流していた小鉄さんらしいなと思ったのを今でも思い出します。

また、全日本と新日本を渡り歩いた関係からか、ノアを含めた三団体の豆腐ちゃんこのレシピを作ったのは小林さんだったという裏話も公開されており、とても印象に残っています。

 寄せ書き色紙

さらにふるさとでもある小諸の話もたびたびされており、いつか私も行ってみたいなあと思っていたのですが、時間ばかりが過ぎて未だに果たせずにいます。

結局小林さんとは、平成維震軍興業の下関大会で一度お会いしただけになってしまいました。

当時、阪神淡路大震災で被災した金本浩二選手の実家を支援するため、当時の維震軍メンバーの寄せ書き色紙が、維震軍全メンバーと握手が出来るサービス付きで売られていました。

 貴重な時間

もちろん私は色紙を購入して、全員と握手していただいたのですが、青柳館長も小林さんも旅立たれて締まった今となっては、貴重な時間だったと思います。

この縁で金本選手が維震軍興業に参戦したりしたのですが、金本選手と小林さんは共にファンである矢沢永吉さんのライブに2人で度々足を運んでいたことをSNSで報告されていました。

 いい人生だな

そんな小林さんも修業時代は苦労の連続で、アメリカでは英語で苦労し、メキシコでは水が合わずお腹を壊したこともありました。

それでも「みんないい経験。楽しかった。普通のサラリーマンでは体験できないこともたくさんあった。レスラーになって本当に良かった。いい人生だな」とおっしゃっていたそうです。

 トレーニングすれば

小林さんはがんとの闘病生活でも道場で練習してから入院するなど、引退しても生涯、プロレスラーを貫きました。前田日明さんにも「トレーニングすればなんとかなる」と会うたびにお話しされてらしたそうです。

小林さんはガンとの度重なる闘いに挑んでいました。

お腹には「T」の字を逆さにした大きな傷跡が刻まれているため、引退試合ではそれを隠すためにタンクトップを着ていました。

 お手本で心の支え

しかし「本当は上半身裸でリングに上がりたかった。お客さんに見せられる体をつくったのに」と残念そうにされていたそうです。

私も血液のガンになって抗がん剤治療を受けた身として、先にがんと闘っていた小林さんはお手本でもあり、心の支えでした。

 打ち勝って

幸か不幸か、小林さんは旅立たれ、私はまだ生き残っていますが、残された人間としての使命は、ガンに打ち勝って、小林さんより長生きすることだと心に誓いました。

小林邦昭さんは、プロレス界に多大な影響を与えた偉大なレスラーであり、その功績は今後も語り継がれていくことでしょう。

小林さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

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