【プロレス】私的プロレススーパースター烈伝(111)ハルク・ホーガン

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

私的プロレススーパースター烈伝(111)ハルク・ホーガン

プロレスファンだった

今回は日本では超人の名で知られ、世界的なスーパースターとして知られているハルク・ホーガン選手のお話です。

もともとプロレスファンだったホーガン選手はスーパースター・ビリー・グラハムさんに憧れ、自身の巨体とロックバンド時代に培った観客とのやり取りの才覚を活かすべく、プロレスラーになることを決意します。

ヒロ・マツダ門下で

ビリー・グラハムさんには弟子入りを断られるも、マイク・グラハムさんを介してヒロ・マツダさんのトレーニングを受けます。

レスラーになるのをあきらめさせるためマツダさんから厳しいシゴキを受けて足を折られたこともありましたが、1977年8月に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー(The Super Destroyer)としてデビューを果たしました。

新日本を主戦場に

ホーガン選手は1980年から1983年にかけて、日本では当時WWFと提携していた新日本プロレスを主戦場とします。

初来日は1980年5月の『第3回MSGシリーズ』でした。

アメリカでのスケジュールの都合のためリーグ戦には参加せず、初来日ながらシリーズ後半戦への特別参加という扱いで、2度目の来日となる1980年10月には、外国人陣営の準エース格として、猪木さんが保持していたNWFヘビー級王座に挑戦。スタン・ハンセンさんのタッグパートナーとしても活躍しました。

看板外国人選手に

ハンセンさんが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバーをフィニッシャーに使用します。

ホーガン選手は、その後新日本の看板外国人選手となります。ホーガン選手はプロボクサーのロッキー(シルヴェスター・スタローン)と戦う敵役のプロレスラー「サンダーリップス(Thunderlips)」としてプロレス界以外でもネームバリューを高め、外国人ベビーフェイスとして日本人陣営にも加わりました。

IWGP決勝

1983年に開催された『IWGP決勝リーグ戦』にはアメリカ代表として参加し、6月2日に蔵前国技館で行われた決勝戦では猪木さんをアックスボンバーでKOして優勝を果たしたことは今でも語り草になっています。

1981年から始めた右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも話題になり、リングコスチュームも黒のショートパンツに白字で「一番」と書いたものにしました。

プロレスグッズ

当時まだ珍しかったプロレスグッズとして「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売されました。

この頃のテーマ曲は「ギャラクティカのテーマ」を使用しています。ホーガン選手は仕事を覚えぐんぐん成長していました。この時期に私ははじめてプロレスを生観戦して当時のホーガン選手の試合をみています。

全米進出計画のエース

1983年12月、ビンス・マクマホン・ジュニア氏にWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わします。

’80年代中頃までは広いアメリカでは州ごとに団体があり、お互いのテリトリーを守り、相互支援する形で運営されていました。

全米制圧に

州ごとの団体をアメリカ西部、中部、南部、そしてWWFがある東部でそれぞれ統括するNWAという連盟があったのです。

ところがこの業界の慣例を破るべく、もっとビジネスを大きくしていくべく東部地区・ニューヨークを本拠地とするWWFが全米制圧に動き出したのです。

正義を体現している男

全米制圧のキーはケーブルテレビでした。

とにかくテレビ映えする、格好良く、強く、たくましく、正義を体現している男が必要だったわけで、そこに白羽の矢がたったのがハルク・ホーガン選手だったのです。

強豪との防衛戦

1984年1月23日、MSGにおいて当時の王者であったアイアン・シークさんを下しWWF世界ヘビー級王座を初戴冠します。

2月10日にはNWAの総本山だったセントルイスのキール・オーディトリアムで、WWF世界ヘビー級王座初防衛に成功し、以降強豪との防衛戦が各地で行われました。

国民的人気

ホーガン選手は、シンディ・ローパーさんらと共にMTVに出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発していきました。1985年3月31日にレッスルマニアの第1回大会が開催されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得しました。

このレッスルマニアという名称自体、当初は「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニア(Hulkamania)」を足したホーガン選手のための大会だったのです。

俳優としても活躍

ホーガン選手はレスラーとしての活動と並行して、さまざまな低予算映画に主演して俳優としても活躍しています。

来日が途絶えていたホーガン選手でしたが、1990年4月13日、東京ドームで開催された『日米レスリングサミット』への出場で久々に来日し、スタン・ハンセンさんとのシングルマッチで勝利を収めています。

SWSに来日

その後、1991年3月31日、当時のWWFの日本での提携先だったSWSの東京ドーム大会に来日、天龍源一郎さんと組んでロード・ウォリアーズ(ホーク&アニマル)と対戦しました。

12月12日にはSWSの東京ドーム大会に再来日して天龍さんとシングルマッチで対戦しましたが、試合はノンタイトル戦となりました。

8年ぶりの新日本

ホーガン選手はWWF時代末期の1993年5月3日、8年ぶりに新日本マットに登場します。福岡ドームでグレート・ムタ選手と対戦しました。これが一番最初のレスリングどんたくでした。

この時、新日本プロレスはWCWと提携を結んでおり、現役WWF世界ヘビー級王者であったホーガン選手の出場は考えられないことでした。

また、ムタ選手も当時はIWGPヘビー級王者であったため、日米のトップ対決としても注目されたのです。

本当の自分

この時期ホーガン選手は世界最大の団体のトップになっていました。

毎日「正義」を演じていると、本当の自分がわからなくなってくるでしょう。なんせ全米にウケるプロレスとは、「わかりやすい」プロレスでした。

緻密な攻防が懐かしく

殴って、けって、叩きつけて。相手の攻撃を受けに受けて、耐えに耐え、最後に怒りを爆発させて一発でやっつけていくのです。

そんな試合をしていたら、かつて新日本プロレスで行なっていた緻密なレスリングの攻防が懐かしくなっていたのかもしれません。

集客の目玉

新日本プロレスは1990年代前半はドームでのプロレス全盛期でした。東京ドームのみならず、大阪、名古屋、福岡のドームツアーを行なっていました。

そこには集客のために目玉が必要でした。

そういうタイミングも重なって、ハルク・ホーガン選手の久しぶりの来日が決まったのです。

黄色タイツのホーガン

かつての「一番」の黒タイツのホーガンではない、アメリカの象徴、全米のスーパーヒーローの黄色のタイツのハルク・ホーガンとしての初来日といっていいでしょう。テーマ曲はもちろんレッスルマニアでも鳴り響いた「リアルアメリカン」です。

そのスーパースターの初来日が1993年5月3日、福岡ドームだったのです。

ムタ対ホーガンは

対戦相手のグレート・ムタ選手は言わずと知れた武藤敬司さんのもう一つのキャラクターです。

1988年から再び海外武者修行に出ていた武藤敬司さんが1989年にWCW(元NWA)でムタとして、これまた全米を席巻していました。

つまり、ホーガン対ムタの試合はアメリカでは実現していないドリームマッチで、日本のファンのみならず、世界のファン垂涎のカードだったのです。

リング上の光景

7年ぶりに来日したホーガン選手は以前のでっかい筋肉マンではなく、ややシェイプされたボディになっていました。

そしてブロンドのヘアーも美しく艶があって、ムタ選手と向かいあっているリング上の光景はまさにアメリカンプロレスの会場そのものの空気感でした。

アメリカの風

リアルアメリカンが会場に流れると、福岡ドームにアメリカの風が吹いたような感覚になりました。

試合はいきなり新日流のレスリングをアピールするホーガン選手と、場外で縄梯子を使ったボディアタックを繰り出すムタが選手がいいコントラストになっていました。

自らを取り戻す

ホーガン選手は次々に細かいテクニック、グラウンド技を織り交ぜながらも、ムタ選手も独自の間合いを使って、ドームにふさわしい、華やか、かつ、一流のプロレスの攻防が展開されました。

結果は毒霧を浴びたホーガン選手がギロチンドロップからアックスボンバーで勝利しましたが、これがムタ選手の初ピンフォール負けでした。

もしかするとこれがホーガン選手の7年ぶりの里帰りで、自らを取り戻す一日だったのかもしれません。

気難しかった

このころのホーガン選手はとても気難しかったそうで、対戦相手を選んでいたそうです。

自らのブランドイメージを損なわない相手を選んでいたため、ギャラも高いが注文もかなりあったらしいですね。

ムタのセンス

それは相手のキャラクターのみならず、ルールを越えて試合中に「仕掛けて」くることをしないという信頼感を抱けるかということかもしれません。

そういうホーガン選手相手に、長所を引き出しつつ、自分のキャラクターも十分に発揮したムタ選手のプロレスセンスも素晴らしかったと思っています。

武藤敬司戦

この試合のリング上で初めてホーガン選手と武藤さんは顔を合わせたそうで、それでここまでの素晴らしい内容の試合を創りあげた両者は超一流といって間違いないでしょう。

この試合以降、ホーガン選手は大阪城ホールで「武藤敬司」さんともシングルマッチを行っています。

華やかな空気

この武藤対ホーガンも生観戦していますが、ローリングリングインからTシャツ煽り投げ、試合前から華やかな空気を醸し出す武藤さんが印象に残っています。

ゴング前の握手、なかなか手を離さないホーガン選手。ゴング後、ホーガン選手のセコンド、ジミー・ハートさんにリング上から握手を求める武藤さんに対し、背中をパンと叩いてこっち来なとホーガン選手も呼応します。

アックスボンバー

武藤さんはローリングエルボー、フェイスクラッシャー、「フィニッシュ!」と叫んでからシュミット式バックブリーカー、一気にラウンディングボディプレスにいきます。

しかしカウント2で跳ね上げるホーガン選手は、武藤さんの髪を両手で鷲掴みにして顔面を叩きつけます!

そして「アックスボンバ〜ッ!」と宣言して武藤さんに食らわせてカウント3!武藤さんはくの字できれいにやられています。

WCWと契約

試合後はマッスルポーズを決めるホーガン選手がなんと武藤さんを指差しお前も来いよと舞台に上げて、ダブルでマッスルポーズの共演をみせてくれました。試合そのものはムタ戦に比べると淡泊でしたが、試合前と試合後の空気が完全にアメリカンプロレスのものになっていたことは覚えています。

ホーガン選手は連続テレビドラマを制作・主演していた1994年、同じディズニー・ワールド内でTVマッチを収録していたWCWと契約します。

nWo結成

WWF時代と同じくベビーフェイスのポジションで活動しましたが、1996年7月、ヒールに電撃転向し、同じくWWFから移籍してきたケビン・ナッシュさんやスコット・ホールさんと共にnWoを結成します。

この当時のテーマ曲は Jimi HendrixさんのVoodoo Child (Slight Return) です。

WWF復帰

ヒールサイドの主役として活躍し、WCW世界ヘビー級王座も何度となく獲得。nWo解散後は、家族と過ごす時間が欲しいとの理由から2001年のWCW崩壊を前に離脱しました。

そして2002年2月、ビンス・マクマホン氏の刺客nWoの一員としてヒールに戻りWWF(=WWE)に復帰します。

対ロック戦

ホーガン選手は、WrestleMania X8で8年ぶりのレッスルマニア再登場を果たし当時の主役ザ・ロック選手との頂上決戦を実現させました。

この試合は「ICONvsICON」という試合タイトルに相応しい重厚な名勝負となり、最後はロックさまがロック・ボトム2連発からピープルズ・エルボーでフォール勝ちを収めています。

しかし、2003年にはストーリーに不満を抱き同年6月にWWEを離脱しました。

殿堂入り

ホーガン選手は、2005年4月、WWE殿堂入りし、WrestleMania 21にてWWEに再び登場を果たします

2014年2月24日、次のレッスルマニアのホストとしてWWEに復帰し、公式サイトにも所属レスラーとして掲載されました。

ですが、2015年7月24日にWWEは8年前に録音された会話の中で、人種差別発言を行ったことを理由にホーガン選手を解雇しています。

再びWWE復帰

ところが2018年7月、WWEは突如、ホーガン選手をWWE殿堂に再び登録しました。ホーガン選手は、団体関係者らと対面し、過去の件について謝罪したと報じられました。

そして11月2日、リヤドで公演された『クラウン・ジュエル』に登場。マイクパフォーマンスだけでしたが、大いに観客を沸かせ、元気な姿を見せたのでした。さらに同年12月、nWoとして2020年度のWWE殿堂入りをしました。

ジレンマを感じる

今のホーガン選手とWWEの関係は不明ですが、HHH体制になってからは表舞台に登場していないため、詳細は不明です。

現役のプロレスラーの多くがホーガンファンであるそうですが、見た目重視のスタイルからレスリングの技術をセールスポイントにするプロレスラーの中には、ジレンマを感じる者も少なくないと言われています。

特に全盛期のライバル、ランディ・サベージさんとポール・オーンドーフさんのホーガン嫌いは有名です。

エゴイスティックな面

TNAやWCWで進行に深く関わって自身を常にストーリーラインの中心に置きたがり、親族や友人を縁故出演させるなど公私を混同した行動をとり、強力なトップダウン式の権力構造を持つWWEではたびたび起用法を巡ってビンス氏と衝突して離脱と復帰を繰り返すといった多くのスターレスラーの例に漏れずエゴイスティックな面もたびたび指摘されています。

1980年代、アンドレ・ザ・ジャイアントとは冷戦状態であるという説がまことしやかに信じられていたが、それは虚説であるという。アンドレ選手はホーガンセン種に一定の信頼を置いていたと言われています。

レジェンドとして

ただ、気さくにファンサービスを行うホーガン選手に対してアンドレ選手はファンとの距離を不用意に縮めたがらない人物であり、プロレス哲学は正反対ではありました。

このように数々のエピソードや業界に与えた影響などを考慮しても、ホーガン選手がプロレス界に残したものはたくさんあり、そういう意味ではレジェンドとして語られるべき選手であることは間違いないと思います。

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