【プロレス】私的プロレススーパースター烈伝(112)ジャンボ鶴田

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

私的プロレススーパースター烈伝(112)ジャンボ鶴田

全日の絶対的エース

今回は全日本プロレスの絶対的エースであり、怪物と呼ばれたジャンボ鶴田さんのお話です。

ジャンボ鶴田さんは、全日本プロレスのエースとして活躍し、その強さから〝怪物レスラー〟と称された伝説的なプロレスラーです。

昭和・平成初期に活躍したプロレスラーであり、また後年はスポーツ科学研究者でもありました。

日本人離れした体格

身長196cm、体重127kgという日本人離れした体格を持ち、豪快な必殺技「バックドロップ」や「ジャンピングニーパッド」で知られていました。

しかし、鶴田さんの人生は単なるリング上の戦いだけではありませんでした。プロレスラーとしての成功だけでなく、人間としての新たなチャレンジにも果敢に挑戦しました。

五輪出場のため

大学1年生の時に「ずっと打ち込んで来たバスケでは、五輪出場は難しいかも」と不安を抱きます。

しかし鶴田さんは「僕は五輪に出たい。種目はなんでもいい。時間は3年間しかない」という強い想いから、各スポーツを検討した結果「アマレスなら希望がある」と想定してレスリングを選んだのでした。

レスリング

しかしバスケットボール特待生で大学に入った男が「いくら頑張っても、五輪には出られないから」という理由でバスケを辞め、レスリングを始めるというのは理解出来ない事でした。

そのためレスリング部は鶴田さんの入部希望を一度は断っています。

自衛隊体育学校で

入部を断られて途方に暮れてしまった鶴田さんは、自衛隊体育学校では一般人でもレスリングが練習可能だと知り、そこで練習を始めます。

自衛隊学校のコーチは鶴田さんの非凡な運動能力に気づき、本腰を入れて指導すると、経験なしの状態からすぐに「全日本社会人選手権」と「国体」の両大会で優勝を果たしました。

レスリング部入部

日本のアマレスレベルは、数多くのメダリストを輩出しているように非常に高く、驚異的な事でした。

少し前に鶴田さんの入部を断ったレスリング部からは逆に「鶴田君、是非こっちに来てくれないか?」と誘われるようになしました。

鶴田さんは当初入部する気はなかったのですが、自衛隊体育学校のコーチから入部を薦められ所属しました。

経験二年で五輪へ

鶴田さんはレスリング経験が若干2年余りで、ミュンヘンオリンピック出場を勝ち取ったのです。

しかしオリンピック本戦では、経験不足はどうしようにも出来ず、戦術の乏しさと国際ルールの不慣れに戸惑い、器用なヨーロッパ選手の敵ではなく、肝心の攻撃がほとんど出来る事なく警告負けに終わったのでした。

全日本入団

レスリングでの実績により、ジャイアント馬場さんからプロレスにスカウトされました。

プロレスに対する偏見や評価などを考慮して当初は様々な葛藤もしましたが、全日本プロレスに入団し、馬場さんの後継として注目されました。

入団後、テキサス州のファンク道場で修行を積んでいます。

ハンセンとの修業時代

当時スタン・ハンセンさんとは気が合った様で、ハンセンさんは「トミー」の愛称で呼び、鶴田さんが日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べるほどの仲だったそうです。

またハンセンさんはその味に感動し、鶴田さんに黙って勝手に食べていたという話も残っています。

経験を積むだけ

ザ・ファンクスの父、ドリー・ファンク・シニアさんは鶴田さんを見て「この男はレスラーへの下地はとっくに出来ている。後は経験を積むだけだね」と評しました。

ハンセンさんは「彼は身体が細いのに、自分より何キロも重いベンチプレスを持ち上げていたからね。あれは凄かったよ」と、その怪力ぶりを語っています。

善戦マン

鶴田さんは1973年に凱旋帰国し、10月9日に蔵前国技館でジャイアント馬場さんと師弟コンビを組み、アメリカでの師匠であるファンクスの持つインターナショナル・タッグ選手権に挑戦しました。

1980年代前半は、あと一歩でタイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていましたが、1982年のNWA戦からタイツも黒を基調としたエースらしいものに変更し「善戦マン」からの脱却を目指します。

バックドロップ伝授

1983年4月、若手レスラーの登竜門と言われたトーナメント大会ルー・テーズ杯の特別レフェリーとして再度全日に登場したルーテーズさんから、バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップをマンツーマン特訓で伝授されています。

このとき「今のコーチ料は100万ドルだな」というテーズさんの言葉に「世界チャンピオンになったら払います」と答えた逸話が残されています。

公式にエースへ

8月31日、蔵前国技館において、至宝インターナショナル・ヘビー級王座を奪取、第14代王者となりました。

試合後、ロッカールームで馬場さんから「今日からお前がエースだぞ」と祝福され、公式に全日本プロレスのエースを襲名します。

AWA初戴冠

1984年に、自身の入場曲を「J」に変更し、2月23日に蔵前国技館で、自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、AWA世界王者のニック・ボックウィンクルさんに再び挑戦します。

この試合はダブルタイトルマッチということで、インター選手権のルールも適用され、反則やリングアウトなどあらゆる勝敗で王座移動、さらにレフリーの失神等でのアクシデントを防ぐため、主審にテリー・ファンクさん、副主審にジョー樋口さんを起用するという万全の態勢で、ニックさんのダーティーファイトを防ぎ、「バックドロップ・ホールド」によって勝利]し、当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、念願の世界奪取を達成しています。

16回の防衛と人気

AWA世界ヘビー級王座獲得後、同王座をリック・マーテルさんに奪取されるまで、16回の防衛、日米2国間を往復しての世界ヘビー級王座防衛は、日本人初の快挙でした。この年、プロレス大賞のMVPを2連覇を達成しています。

しかし、レスラーとしての格と人気面のギャップは良くも悪くも「気は優しくて力持ち」的な鶴田さんのキャラクターや、試合ぶりにファンが感情移入しにくい点に一因があったともいえます。

肝炎のキャリア

鶴田さんは1980年代中盤、大型の外国人と戦っても見劣りしないレスリング技術で、相手レスラーからの評価も高く、その運動能力、身体的能力を絶賛する者も多くありました。

尚、後年引退の原因となった肝炎のキャリアである事が発覚したのは1985年8月で、この事実は馬場さんと鶴田さんの2人が知るのみであり、他のレスラー・関係者には伏せられたままでした。

対長州戦

鶴田さんは1984年末から新日本を退団しジャパンプロレスの一員として全日本に参戦した長州力さんと、1985年11月4日に大阪城ホールでシングルマッチを行います。結果は60分フルタイム戦って両者引き分けに終わったのですが、この一戦でリング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州さんが動き回るようにファイトすることを意識していたそうです。

鶴田さんは、引退後日本テレビのインタビューで「あれは僕の作戦勝ちでしょう」と語っています。

王道を体現

これは馬場さんがエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったもので、鶴田さんが王道プロレスを体現した試合として今も語り継がれています。

この試合に関しては鶴田さんが最初から60分時間切れ引き分け狙いだったとされていますが、なぜ勝敗を着けなかったのかというと、長州さんは当時全日本プロレスにとって大事な商品であることから傷をつけるわけにはいきませんでした。

フルタイムドロー

しかし、鶴田さんとの格の差は見せつけなければならないため、60分を戦い抜かせることでまだまだ元気な鶴田さんと疲労困憊だった長州さんと比べさせて、鶴田さんの方が上だと示させたと見られています。

この鶴田vs長州戦は1985年度のプロレス大賞ベストバウトを受賞しています。

天龍同盟を相手に

鶴田さんが怪物レスラー、完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に「天龍同盟」を結成した天龍源一郎さんとの一連の抗争、そして天龍さん離脱後の超世代軍・四天王との戦いでした。

天龍さんが繰り出す激しい攻撃に触発され、鶴田さんも恵まれた身体能力を背景に覚醒、一般的なプロレス技で天龍さんを失神させたり、対戦相手が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮しました。

初代三冠ヘビー王者

特に天龍さんは世界タッグ戦でバックドロップの3連発、1989年4月の三冠戦では後に「ジャンボ・リフト」と呼ばれる掟破りの超急角度の垂直落下型パワーボムと、2度失神させられています。

1988年6月には、谷津嘉章選手との五輪コンビでインターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、1989年4月には、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代三冠ヘビー級王者となりました。

2・10ドームで

これらの実力が認められた結果、ジャンボ鶴田さんの人気は不動のものとなり、1990年2月10日に行われた、新日本の東京ドーム大会に参戦した際には敵地であるにもかかわらず、入場時に「ツ・ル・タ、オー!」コールが爆発するなど、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるにふさわしい存在になっていました。

この時期、全日本のリングから、かつて世界王座戦線で何度も苦杯を飲まされたリングアウトでの決着・反則での決着が徐々に消え去り、リング内での完全決着が目指されるようになった事も、鶴田さんには追い風となったのです。

対三沢光晴戦

天龍さんが新天地を求めて全日本を離脱しSWSに移籍した後、鶴田さんのライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴さんでした。

1990年6月、三沢さんはシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものでした。

最初で最後の涙

ですが、三沢さんは最初で最後の涙をリング上で流し、日本武道館の観客が総立ちになるなど、盛り上がる結果となりました。

その3ヶ月後の1990年9月、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度三沢さんと戦った際、今度は鶴田さんがジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢さんから完璧な3カウントを奪っています。

一度でいいから

鶴田さんは当時のインタビューで「一回でいいから、世界最強といわれるハルク・ホーガンと、負けてもいいから思いっきり闘いたい」とコメントしたことがあります。

対戦したい相手として他には前田日明さんや藤波さんの名も挙げており、一時は新日本への移籍を本気で考えた時期もあったといいます。

新日移籍

タイガー戸口さんによると、1981年に戸口さんが全日本から新日本に移籍する際、鶴田さんも一緒に全日本を離れようとした事が後年明らかにされ、もし実現していればプロレスとの関わりを断ったのではないかと推測しています。

鶴田さんは、全日本プロレスを引退後、筑波大学大学院修士課程体育研究科にコーチ学専攻で入学し、慶応大学、中央大学などの講師を務めました。

5月13日

その後、ポートランド・ステート大学の研究交流教授として渡米しました。

しかし肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生し、長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく2000年5月13日17時(現地時間では16時)に49歳で死去されました。

超人的体力

鶴田さんは生まれ持った運動基礎能力が格段に優れていたようで、若い頃に山道を自転車で普通に走り回り、それだけで自然と超人的な体力が付き、特に目立った練習をしないままオリンピックに出られた人物でした。

1985年の夏、B型肝炎のウィルスキャリアが判明してから本当にハードなトレーニングが出来なくなり、もっぱら趣味のスポーツで体力を維持していました。

持って生まれたものが

それに対し天龍さんはオフでも週に5日は練習や稽古を欠かさない「稽古の鬼」でしたが、ハードトレーニングをしなくても怪物的な強さを見せ付ける鶴田さんに「こいつと俺らは、持って生まれたものが違うんだなぁ」としみじみ思ったといいます。

三沢さんも自著で「鶴田さんは持って生まれたものが凄すぎた。レスラーに必要な能力を全て備えていた」と語っています。

人生はチャレンジだ

このようにジャンボ鶴田さんは、日本のプロレス界に多大な影響を与えた偉大な選手であり、その生涯は多くのファンに記憶されています。

鶴田さんの座右の銘は「人生はチャレンジだ!!」であり、この言葉は墓石にも刻まれています。この言葉は、鶴田さんがプロレスラーとしての現役生活を終えた後も、新たな夢に向かって進む勇気を持つ人々に向けてのメッセージでした。

可能性を追求

鶴田さんは、プロレスラーとしての成功に満足することなく、自分の可能性を追求しました。

鶴田さんは、プロレスラーであること自体がチャレンジであり、引退後も大学で教鞭を取ることと同列だったと考えていました。プロレスラーとしての経験を「鶴田友美がプロレスにチャレンジしてきた経験」として捉え、その経験を通じて成長しました。

新たな道を

鶴田さんの生き方は、プロレスファンにとっても示唆に富んでいます。

「プロレスラーらしくないプロレスラー」でありながら、自分の可能性を信じ、新たな道を切り開いていきました。

チャレンジする大切さ

鶴田さんの雄姿は、私たちに人生をチャレンジする大切さを教えてくれています。

ジャンボ鶴田さんの名言「人生はチャレンジだ」は、プロレスファンだけでなく、誰もが心に留めておくべきものです。

人生はチャレンジであり、チャンスは掴めるものだという鶴田さんのメッセージは、今もなお私たちに勇気を与えています。

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