プロレス的発想の転換のすすめ(3)己を磨き闘いに勝つ
承認欲求を超えろ
今回は承認欲求とプロレスについてお話しします。
承認欲求とは、人間誰もが持っている本能に近いものだと思います。基本的な欲求と同じくらい強いものでしょう。
人に認められるということがどれだけ気持ちいいことか、どれだけ嬉しいことか、誰もが経験のあるところです。
アドラーが否定した承認欲求
しかし、基本的には利己的な欲求の一つといえます。
名誉欲にもつながる欲求ですね。
アドラー心理学で有名なアドラーは承認欲求を完全否定していますが、人に認められたいという気持ちの中に、他人を思いやるという要素はありません。
そこにあるのは「自分の欲求を満たしたい」ということのみです。ですから利己的だといえるんですね。
「人に認められたい」だけでは
承認欲求を持つということは、他人からの評判に執着することです。
人は常に人を誤解します。誤解に基づいた評判に執着し、囚われるならば、現代社会に見られるような激しい競争につながっていきます。
競争社会では極めて少数の勝者を除き、誰も幸せにはなりません。人に認められたい、だけでは目立ちたがり屋となんら変わりません。
「目立ちたがり屋」だけでは
得てして「プロレスをやりたい」側にいく人の中には、悪い意味で「目立ちたがり屋」な人も少なからずいます。では、なぜ「目立ちたがり屋」だけでは大成しないのでしょうか?
①自分のしたいことしかしないから
②自分を客観視できないから
③お客さんを自分のものだと思っているから
独りよがりは致命傷
私はこの3点を理由として挙げたいと思います。
①は見せて(魅せて)ナンボのプロレスにおいて、独りよがりは致命傷です。②の客観視ができていれば、そもそも①も③も起こり得ません。
自己評価を正しく認識
そして③ですが、観客万人が自分の味方だとプレイヤーが錯覚している場合に顕著です。
実際、観客の心は移ろいやすいものですし、その承認によって自分の評価が乱高下するようでは、おぼつきません。
自己評価を上げて
人に何かを見てもらうためには、まず自己評価を上げて、それを正しく認識しておく必要があるのではないかと私は思います。
目立ちたがり屋と、人前に出て何らかの技能を披露する人間は当然違います。
もちろんアーティストやプロレスラーは、ただの目立ちたがり屋だけでは務まりません。
名仕事人・吉村道明
ひとついい例を紹介しましょう。日本プロレスという力道山が創設したプロレス団体がありました。
ここに吉村道明という名選手がいました。
確かな技量がないと
アントニオ猪木選手やジャイアント馬場選手といった、力道山亡き後の後継スターのサポートとして、常に先陣を切る「特攻隊長」といえば聞こえはいいですが、相手にやられて、やられて、いいところでスター選手にスイッチする役目を担っていました。
しかし、それはしっかりした体作りと確かな技量がないと不可能なことでした。
スター選手を立てるために自分が一歩引いた役割をこなす技量を持つ選手を、私は「仕事人」と呼んでいますが、吉村選手ほど仕事人と呼ぶにふさわしい選手はいないでしょうね。
いい仕事をする
確かに攻められて一本取られることも少なくなかったですが、ダメージを負うことも少なく、常に第一線で闘い続けた名脇役でもありました。
吉村選手は回転エビ固めの名手でしたが、この回転エビ固めを日本で初披露した対カール・クライザー(のちのカール・ゴッチ)戦では、日本人として初めてジャーマンスープレックスを食らっています。
神様に土をつけた
吉村選手はその受けの強さで、あり得ない角度から落とされても、試合後は平然と立ち上がっているのです。これは驚くべきことでした。
「プロレスの神様」カール・ゴッチ選手は対日本人ではほぼ無敗を通していますが、全盛期のゴッチ選手に唯一土をつけた日本人選手が、吉村道明選手だったのです。
どんな位置にいても
このことからも、実力のある人はどんな位置にいてもいい仕事を残すものなのです。
これでケガが多かったら、そもそもこのような危険な役回りは依頼されないでしょう。
承認欲求とプロレスの真実
ここで、承認欲求とプロレスの関連性について具体的に考えてみましょう。
プロレスラーにとって「観客の声援」は最大の報酬ですが、承認欲求に支配された選手は、しばしば「自分が目立つこと」を優先し、闘いの流れを壊してしまいます。
例えば、若手選手が自分の技術を誇示しようと無理な大技を連発し、結果として対戦相手の光を消し、観客を置いてけぼりにするケースです。
これは自己満足的な承認欲求の弊害です。
対して、吉村道明選手のような一流のプロは、承認欲求を「自己の規律」へと昇華させています。
彼は自分が目立つことよりも「その闘い全体が、観客の心にどう響くか」を最優先しました。
結果として、主役を食うほどの存在感を放ち、「吉村がいなければこの闘いは成立しなかった」と後世に語り継がれる評価を得たのです。
本当の承認とは、求めて得るものではなく、徹底した自己犠牲とプロ意識の果てに「あとからついてくるもの」なのです。
みんながハッピーに
格闘技を含めた一般スポーツは、プレイヤーを勝者と敗者に分けたがります。
勝者は栄光を掴み、敗者は語ることすら許されません。その厳しさがある意味スポーツの魅力でもあります。
しかし、プロレスは競技であり、勝者と敗者が生まれるにも関わらず、「みんなが幸福になるにはどうしたらいいのか」を模索できますし、プロレスラーも観客もみんながハッピーになることを求めています。
自分をどうしたらいいか
それを真剣に考えて、自分をどうしたらいいのかという結論が出たならば、他人の評判などものともせず、その道を突き進むべきでしょう。
それはプロレスラーであろうと、観客であろうと変わりはありません。
名脇役をひた走る
誰もが馬場選手・猪木選手を目指していたら面白くありません。時には吉村道明選手のような選手も必要なのです。名脇役という道をひた走ってプロレス人生を終えた吉村選手の生き様には、私は大いに共感しますね。
承認欲求などどうでもいい
プロレスも映画も、展開上アンハッピーで終わることも珍しくはありませんが、それでも何らかの気持ちや心が動く瞬間を求めて、二度三度と私たちは会場に足を運びます。
それは一時のアンハッピーよりずっと素晴らしい「ハッピー」を知っているからです。
瑣末な結末に一喜一憂しない、揺るぎない信頼と愛情がそこにあるから見続けられるのです。
それに比べると、自分だけが幸せならそれでいいという承認欲求など、どうでもよかったりするんですよね。
結びに代えて:カウント2.9からの逆転
人生というリングの上では、時に他人の評価という強烈なバックドロップを食らい、マットに沈みそうになることもあるでしょう。
しかし、そこで承認欲求という名の虚栄心にすがってはいけません。
吉村道明選手がゴッチ選手の猛攻を耐え抜いたように、私たちもまた、自分自身の「仕事」を全うすることでしか、真の拍手は得られないのです。 た
とえ今がカウント2.9の窮地であったとしても、己の価値を信じ、何度でも立ち上がりましょう。その不屈の精神こそが、承認を超えた先にある、人生という名の最高の「闘い」を完遂させる唯一の武器なのです。
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