[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝(30)テリー・ファンク

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

プロレス界のリビング・レジェンド、テリー・ファンク選手が79歳で逝去。日本での名勝負や若手育成にも貢献した「テキサスの荒馬」の軌跡

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プロレス界に衝撃

プロレス界に衝撃を与えたニュースが飛び込んできました。8月24日、「テキサス・ブロンコ」テリー・ファンク選手が79歳でこの世を去ったことをWWEが発表しました。

テリー・ファンク選手は、全日本プロレスで兄ドリー・ファンク・ジュニア選手とのタッグ「ザ・ファンクス」で活躍したプロレスラーです。NWA世界ヘビー級王者としても名声を得た後、ハードコアマッチやデスマッチへの挑戦、50歳を過ぎてからのムーンサルトプレスなど、常に新しいことに果敢にチャレンジする姿勢でファンを魅了しました。

また、他のベテラン勢は自分のポジションを奪われるのを嫌がり、若手との対戦は避けていた中、後年は若手育成にも力を入れ、ECW時代は積極的に若手とも試合を行なっています。裏方としても活躍し、第一次UWF初期に外国人選手をブッキングしたり、AWA世界ヘビー級王者となった鶴田さんの特別レフェリーを務めたりしました。

そんなテリー・ファンク選手のプロレス人生を振り返ります。

日本プロレスでデビューした「ザ・ファンクス」

テリー・ファンク選手は、プロレスラーのドリー・ファンク・シニアさんの次男として生まれ、1965年にプロレスラーとしてデビューしました。日本プロレスに初来日した1970年からは兄ドリーさんとのタッグ「ザ・ファンクス」で活躍しました。

ドリーとテリーのファンク兄弟は1970年日本プロレスに揃って初来日し8月4日東京でジャイアント馬場、アントニオ猪木組のインターナショナルタッグ選手権に挑戦しましたが2-0のストレート負けします。

奮起した兄弟は翌1971年12月7日札幌で見事BI砲を2-1で破ってタイトル奪取しました。この時期のファンク兄弟はまだ若く、素早い動きや空中技も多用していました。特にテリーさんは兄よりも攻撃的でパワフルなファイトスタイルで知られていました。

全日本プロレスで繰り広げた名勝負

その後全日本プロレスに戦いの場を移したファンク兄弟をメインに開催されたのが1977年世界オープンタッグ選手権大会です。

開幕戦のメインで馬場が地上最凶悪コンビのブッチャー、シーク両選手の凶器攻撃によってピンフォールを奪われると既に試合を終えていたテリーさんが無法攻撃に怒って乱入しましたが、逆に凶器攻撃で血だるまにされてしまい遺恨が生まれました。

最終戦12月15日蔵前国技館大会のメインでファンク兄弟と最凶悪コンビが激突し、ここでブッチャー選手のあの伝説のフォーク攻撃が見られました。ドリーさんが何度か弟を救出すべくリングに入るのですが、ジョー樋口レフェリーに制止されてしまい、ドリーさんはコーナーでタッチロープを掴みながら必死にテリーさんを呼んで我慢して待ちました。

テリーさんがブッチャー選手に左のパンチを放ってようやくドリーさんに繋ぎ、ドリーさんの猛攻撃が始まりました。

その後テリーさんがリング下で応急手当を受けている間にドリーさんが最凶悪コンビにつかまりましたが、応急処置を終えたテリーさんがリングに戻り兄を救出するあのクライマックスに突入していき、最後は最凶悪コンビの反則負けでファンク兄弟が優勝の名誉と賞金1000万円を手にしました。

ドリーさんがレフェリーの制止を振り切って助けに行ったらドリーさんがドリーファンク・ジュニアではなくなってしまうし、そうなったら試合は恐らくノーコンテストになって馬場、鶴田組に優勝をさらわれてしまったし、ドリーさんのあの我慢があったからこそプロレス史に残る名勝負が生まれたのです。

NWA世界ヘビー級王者として君臨

テリー・ファンク選手はNWA世界ヘビー級王者の兄ドリー選手のポリスマンとして各地のトップレスラーとの対戦を経験し、あらゆるスタイルに対応できる技術を築きました。

1975年12月10日、テキサス州マイアミでジャック・ブリスコ選手からNWA世界ヘビー級王座を奪取したテリー・ファンク選手は、兄弟揃ってNWA世界ヘビー級王者という快挙を成し遂げました。この時期のNWA世界ヘビー級王者としては、全米各地のプロモーションを巡業し、ハーリー・レイス選手やダスティ・ローデス選手などの強豪と激闘を繰り広げました。また、日本でも馬場選手や猪木選手とのシングルマッチで対戦し、高い評価を得ました。

テリー・ファンク選手は、NWA世界ヘビー級王者としての責任感やプレッシャーに耐えながらも、常に自分のスタイルを貫きました。受けの美学といえるファイトスタイルは、怪我を頻発させる代償を伴いましたが、それでもファンに感動を与えるためにリングに上がり続けました。

1977年2月6日、トロントで行われた試合でラリー・ズビスコ選手に敗れてNWA世界ヘビー級王座から陥落したテリー・ファンク選手は、その後もNWA世界ヘビー級王座への挑戦権を得るために奮闘しましたが、再び王座に返り咲くことはありませんでした。

しかし、テリー・ファンク選手はNWA世界ヘビー級王者として活動し超一流のレスラーとしての名声を得た後でも、新しいことに果敢にチャレンジする姿勢は、生ける伝説ー「リビング・レジェンド」と讃えられています。

ハードコアマッチやデスマッチへの挑戦

1989年にはWCWでリック・フレアー選手と抗争し、アイ・クイット・マッチやサンダードーム・ケージマッチなどで激闘を展開しました。

1990年代に入ると、テリー・ファンク選手はハードコアマッチやデスマッチへの参戦を増やしました。日本ではFMWやIWA JAPANで炎や爆発などの危険な要素を含んだ試合に出場し、アメリカではECWでサブゥーやカクタス・ジャックなどと血みどろの戦いを繰り広げました。

テリー・ファンク選手はこの時期にも何度も引退宣言をしましたが、そのたびに復帰してしまいました。その理由は、プロレスへの情熱とファンへの愛情だったのでしょう。

50歳を過ぎてからのムーンサルトプレス

テリー・ファンク選手は50歳を過ぎてからもプロレス界に留まり、新しい技やスタイルに挑戦し続けました。驚くべきことに、テリー・ファンク選手はこの時期にムーンサルトプレスを使い始めました。

ムーンサルトプレスとは、コーナーポストに登って後方宙返りしながら相手に飛びつく技です。この技は非常に難易度が高く、若いレスラーでも失敗することが多いです。しかし、テリー・ファンク選手はこの技を自分の必殺技として習得しました。

テリー・ファンク選手が初めてムーンサルトプレスを披露したのは、1994年11月19日のECWで行われたサブゥー選手との試合でした。この試合では、テリー・ファンク選手はムーンサルトプレスを2回も成功させて勝利しました。この時のテリー・ファンク選手は50歳でした。

その後もテリー・ファンク選手はムーンサルトプレスを度々使用しました。1997年4月13日のWWFで行われたハードコアマッチでは、チェーンソー・チャーリー(テリー・ゴディ)選手と組んでニューエイジ・アウトローズ(ロード・ドッグ&ビリー・ガン)選手と対戦しました。この試合では、テリー・ファンク選手はダンプカーの上からムーンサルトプレスを決めて勝利しました。この時のテリー・ファンク選手は53歳でした。

テリー・ファンク選手のムーンサルトプレスは、形は不完全ではあるものの、その勇気と執念に満ちた姿は多くのファンやレスラーから敬意を集めました。テリー・ファンク選手は自分の年齢や体調に関係なく、常に新しいことに挑戦する姿勢を貫いたのです。

若手育成にも貢献

テリー・ファンク選手は自分のキャリアだけでなく、後進の育成にも力を入れました。特にECW時代は若手と積極的に試合を行なっています。

ECWとはエクストリーム・チャンピオンシップ・レスリングの略で、1990年代にアメリカで活動したハードコア系の団体です。ECWではハードコアマッチやデスマッチが多く行われており、血や暴力が溢れる試合が人気を博しました。

ECWでは多くの若手レスラーが活躍しましたが、その中でも特に目立ったのがサブゥーやトミー・ドリーマーなどです。これらの若手レスラーはテリー・ファンク選手と対戦することで技術や経験を学びました。

テリー・ファンク選手は自分のキャリアだけでなく、後進の育成にも力を入れました。特にECW時代は若手と積極的に試合を行なっています。

ECWでは多くの若手レスラーが活躍しましたが、その中でも特に目立ったのがサブゥーやトミー・ドリーマーなどです。これらの若手レスラーはテリー・ファンク選手と対戦することで技術や経験を学びました。

テリー・ファンク選手は彼らに対して厳しくも優しく接し、時には敵として、時には味方として、時には師として、時には友として、様々な関係を築きました。テリー・ファンク選手は自分の持つ知識や経験を惜しみなく若手に伝え、彼らの成長を促しました。

テリー・ファンク選手と若手レスラーの関係の中で最も印象的だったのは、1997年4月13日のECWで行われたベアフット・バーブドワイヤー・マッチでした。この試合では、テリー・ファンク選手とサブゥー選手がタッグを組んでシェーン・ダグラス選手とトミー・ドリーマー選手と対戦しました。

この試合では、リングロープがバーブドワイヤーに替えられており、さらにレスラーたちは靴を履かずに戦いました。この試合では、テリー・ファンク選手とサブゥー選手がバーブドワイヤーに絡まり、血だらけになりながらも必死に戦いました。

試合終盤、テリー・ファンク選手はシェーン・ダグラス選手からピンフォールを奪われて敗北しました。しかし、試合後のリングでは、テリー・ファンク選手とサブゥー選手が抱き合って感動的なシーンが展開されました。この時のテリー・ファンク選手は53歳でした。

この試合はプロレス界でも話題になり、プロレス大賞では年間最高試合賞を受賞しました。また、この試合はECWの歴史上でも最も有名な試合の一つとして語り継がれています。

日本での最後の試合

テリー・ファンク選手は2014年12月11日、後楽園ホールにて行われた東京愚連隊興行にて船木誠勝&ミル・マスカラスと組み、藤原喜明&NOSAWA論外&カズ・ハヤシ組と対戦しました。これが日本での最後の試合となりました。

この試合では、テリー・ファンク選手は自らの代名詞であるスピニング・トーホールドやムーンサルトプレスを披露し、ファンを沸かせました。試合はテリー・ファンク選手がカズ・ハヤシ選手にスピニング・トーホールドを決めて勝利しました。

試合後のリングでは、テリー・ファンク選手はマイクを持って「日本のファンの皆さん、ありがとう!愛してるぜ!」と感謝の言葉を述べました。そして、テリー・ファンク選手は船木選手やミル・マスカラス選手と共にリングを後にしました。この時のテリー・ファンク選手は70歳でした。

また最後の来日は、2015年の天龍源一郎選手の引退試合で、この時は宿敵であり教え子のスタン・ハンセン選手と共にリングに上がり、天龍選手のセレモニーに参加しました。2人の退場時にはスピニングトーホールドと、サンライズの合体テーマ曲が流されて感動したことをよく覚えています。

プロレス界からの別れ

そんなテリー・ファンク選手ですが、8月24日、「テキサス・ブロンコ」テリー・ファンク選手が79歳でこの世を去ったことをWWEが発表しました。

テリー・ファンク選手はプロレス界に多大な影響を与えたレジェンドです。彼は自分のスタイルを貫きながらも常に新しいことに挑戦し、多くの名勝負や感動を生み出しました。彼は自分のキャリアだけでなく、後進の育成にも貢献しました。彼はプロレスへの情熱とファンへの愛情を持ち続けました。

私は今も1983年8月31日、「さよならテリーシリーズ」最終戦の蔵前国技館でのメインイベントをはっきり思い出せます。山口県では全日本プロレスの中継はありませんでしたが、この大会だけは「土曜トップスペシャル」で7時半からの特番枠で放送されたため見ることができたのです。

試合後のリング、テリーはドリーと並びマイクを持ってスポットライトを浴びながら「アイ ラブ ユー!サヨナラ!フォエーバー!」と涙の絶叫をします。

スピニング トーホールドの鳴り響く館内はファンの涙に包まれて、大感動のうちに大会は終了します。

この感動もさめやらぬうちにテリーさんは復帰してしまうのですが、それも含めてにくめない人だったなあと思います。

テリーさんのご冥福を心よりお祈りいたします。

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