プロレス的発想の転換のすすめ(133) 壊れゆく美学の行方
現場に通うファンの今
今回は、古参ファンである私が抱えるプロレスへの「もやもや」を語ってみたいと思います。私はいにしえのプロレスファンですが、現在進行形のプロレスも生観戦しており、だいたい年間20大会は見に行っています。
国内のメジャー団体には関心が薄いですが、インディ団体や社会人プロレスは大好きでよく足を運びます。
メジャーに関しては配信で観ることが多いものの、地元や近隣に来た時はなるべく会場へ向かうようにしています。
基本、自分の趣味がインディ寄りなので、メジャーと呼ばれる団体には概ね辛口な評価になってしまいます。
理想とするプロレス像
プロレス界における「メジャー」と「インディ」の定義は、団体の規模、知名度、ファン層、集客力などによって異なります。ただし、自分の中には理想とするプロレス像があり、それにそぐわない場合はインディでも辛口になるのです。
私の好みは、技や動きに「説得力」があり、闘いとして試合に意味を持たせられる内容を見せてくれる団体や選手ということになります。
リアリティを追求するあまり、実際のプロレスを注視しているため、どうしても懐古趣味になりがちです。言い回しを間違えると「老害」と呼ばれてしまう危うさも孕んでいます。
老害と呼ばれる恐怖心
まあ、老害に関しては自覚があるので、言われても気にしないようにしていました。しかし、本当は老害と蔑まれることは怖いし、少数派の意見をわざわざ声高に主張することも怖いのです。
そんな自分を正当化するために、かつて応援してきた選手たちの悲惨な晩年をたくさん目の当たりにしてきた事実を持ち出して、「危険な方向に走るプロレスには賛同しない」というスタンスをとっていたのです。
これは、かつての激闘の代償で膝や腰がボロボロになり、歩行も困難になった英雄たちの姿を見てきた者の、偽らざる恐怖心でもあります。
四天王プロレスの罪
危険なプロレスということで言うなら、90年代に流行した「四天王プロレス」。
全日本プロレスで繰り広げられた、三沢光晴選手を中心とした限界突破の攻防には、私も熱狂した一人でした。
当時は、川田利明選手の顔面蹴りや小橋建太選手の剛腕に、人間心理の限界を超えた「情念」を感じていました。
今思うと明らかに行き過ぎたプロレスだったわけですが、当時は自分自身もエスカレートする欲求が止められず、選手たちもまた熱にうなされるかのように危険な落とし技の応酬に走ってしまいました。
四天王プロレスに対する熱狂は、当時それを支持した私の「罪」でもあります。
だからこそ、今のプロレスに歓喜する現在のファンに対して、否定的な意見を投げかける資格自体がないのかもしれない、と自問自答してしまいます。
肉体がぶつかる説得力
思い返してみるに、プロレスは肉体と肉体がぶつかり合うコンタクトスポーツのはずです。例えば、スタン・ハンセン選手対アンドレ・ザ・ジャイアント選手のように、人間離れしたモンスター同士がぶつかり合うだけでも「闘い」として成立していました。
あの伝説の田園調布での一戦のように、ただ睨み合い、ラリアット一発で観客を総立ちにさせる。
そこには、複雑な連携など不要な「存在の説得力」がありました。
ところが、サイズが小さい日本人対決が中心になると、迫力の不足分を、より一層の激しい攻防でカバーせざるを得ません。
相手から逃げずに攻撃を受け、派手に受け身を取る。日本人対外国人がスタンダードだった時代より、はるかに肉体を削るボロボロな闘いを強いられました。
過激化する日本の闘い
こうして、いつしか日本人同士が闘いの中心になり、過激さに慣れたプロレスファンは、より凄惨でボロボロな展開を求めるようになりました。
気がついたら、私もその「超人嗜好」という麻薬のような刺激に染まっていたのです。
巨漢と呼ばれる選手が空中戦を行う現在、ファイトスタイルでヘビー級、ジュニアヘビー級を区分けするのは困難になってきました。
プロレスにおける両者の違いは、主に体重制限とファイトスタイルにあります。
曖昧になる階級の壁
ヘビー級は、体重100kg以上の選手向けの階級で、どの団体でもジュニアがメインになることはなく、こちらの階級が各団体における主要階級です。
一方、ジュニアヘビー級は100kg未満の選手が対象で、100kg以上の選手は絶対に参加することができません。
本来、体が軽くて小さい選手ばかりのため、バック転やバク宙を取り入れたアクロバティックな華やかさが特徴です。
しかし、最近ではヘビー級の選手でも空中戦をこなし、スピードやキレをヘビー級に持ち込む選手が増えてきました。
これにより視覚的な違いが少なくなってきています。
昔ならジュニアの専売特許だった領域にスーパーヘビー級の選手たちが入り込み、さらには四天王プロレスに対するアレルギーが薄くなったのか、垂直落下式の技が乱発されるなど、視覚的な違いが少ない試合が増えてきました。
これはヘビー級の存在意義を脅かすものだと私は思うのです。
重厚さとレスリング力
ヘビー級の「闘い」には、その体重とパワーによる「重量感」や「説得力」が求められます。
私が理想とするのは、技術に裏打ちされた、一分の隙もないレスリングです。
手首一つを奪い合う攻防の中に、「一歩間違えれば極められる」という緊張感がある試合こそが理想です。
「正しい受け身さえ練習していれば五体満足でいられる」という意見に対し、私は懐疑的です。ヘビー級はジュニア以上の体重を背負っており、その分ダメージは自分の体に跳ね返ります。
安全とされる受け身も、毎日取り続ければ身体にダメージが蓄積され、知らず知らずのうちに痛みや負傷箇所が慢性化していくでしょう。人間はいつまでも若い頃のパフォーマンスができるわけではありません。最近自分でも加齢と共にそれは痛感しています。
非常ベルを鳴らす役割
プロレスのレスは「レスリング」の略です。
この言葉が独り歩きし、基盤であるレスリングを疎かにしたまま「受け身があるから大丈夫」と、いきなりアクセル全開にして踏みっぱなしになるような試合を、私はプロレスと呼びたくありません。
レスリングを軽視したツケは、いずれ大惨事として跳ね返ってくるでしょう。
プロレスラーもファンも、どこか感覚が麻痺しているように感じます。
大会の熱狂に潜む違和感や、事故が起きても無機質なゲームのように消費される空気感が怖いのです。プロレスラーは生身の人間です。果たして我々は、命まで要求して良いのでしょうか。
振り子のような歴史
プロレスの歴史は、過激になりすぎると軌道修正され、また刺激を求めて過激化する、振り子のような歴史です。
かつての四天王プロレスを良しとしてしまった世代として、私はこの現状に危機感を覚えます。レスラーが観客に求められるまま、手のひらの上で踊らされている現状。
老害扱いされても、誰かが「非常ベル」を鳴らさなければならない。自分の中のモヤモヤを形にすることこそが、古いファンの役割なのかもしれない、と痛感しているのです。
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