[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝#72 前田日明

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

新日本入団

今回は、格闘王・前田日明選手のご紹介です。

前田さんは1977年、佐山聡さんにスカウトされ、新日本プロレスへ入団します。新日本プロレス入団の動機は「モハメド・アリのジムと提携してるので一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」と新間寿さんに言われたのが理由だそうです。実際は提携の事実はなく、新間さんが半ばだました形で入団をさせたのでした。

大型であることから将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、クイック・キック・リーのリングネームで活躍します。

1983年1月25日にはウェイン・ブリッジを破り、ヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得します。

4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収めました。5月開幕のIWGP決勝リーグ戦には「欧州代表」として、11月開幕の第4回MSGタッグ・リーグ戦には 藤波辰巳さんとのタッグチームで出場しました。

第一次UWFから新日Uターン

凱旋当時は「七色のスープレックスを持つ男」と紹介され、相手をロープに飛ばしてのフライング・ニール・キックなど、ダイナミックな技で人気レスラーとなりました。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられています。

前田さんが参加した第一次UWFは、理想や夢のためではなく、母親が怪我で入院したため移籍金が必要だったと証言されています。UWFでは若きエースとして迎えられました。第一次UWFが活動停止すると、1985年12月6日、業務提携という形で新日本プロレスに復帰します。

この時前田さんははリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行っています。UWF対新日本は、独特の緊張感をもたらし、格闘技的雰囲気が濃くなっていきました。しかし、1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチにおいて、長州力選手への顔面蹴撃事件がおきます。

第二次UWFを経て

このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下します。その後、前田さんを中心とした第2次UWFが、1988年5月12日に後楽園ホールで旗揚げ戦を行いました。第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスでした。

一大ブームを巻き起こした第二次UWFでしたが、一連の前田とフロントとの確執で、選手間の話し合いは紛糾し、解散を宣言し、第二次UWFは隆盛を極めながらも、活動期間僅か2年8ケ月という短い歴史にピリオドを打ちます。

第2次UWF解散後の1991年春、前田さんリングスを設立します。リングスの興行はWOWOWで生放送されました。1999年2月21日、前田さんの引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負けします。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリン選手をレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きく、引退試合は民放のニュース番組で特集されるほど、世間から注目されました。

前田さんは、引退試合の相手にカレリン選手を選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っています。

実際にお会いできた恍惚と不安

前田さんとは一度お会いしたことがあります。2019年6月2日、北九州市において、格闘技と教育の未来を語ると言うイベントにゲストで前田さんが来られたのでした。北九州には前田さんがプロデュースするアウトサイダーズの母体になった「天下一武道会」という格闘技イベントがあり、そこの招待で前田さんは来られたらしいですね。

もっとも、半分選挙の応援も兼ねてまして、そっちがメインだったので、入場料は無料でした。イベント後ツーショットをとっていただき、ど緊張したのは、今でも覚えています。

その後、プロレス居酒屋がむしゃらにも短時間こられた前田さんからは、本にサインをいただきました。この時のオーラはやはりものすごいものがあって、横にいても怖いくらいでした。

今でもあれは夢だったんではないだろうか?と思うのですが、写真が残っているということは夢ではなかったのでしょう。一生忘れられない想い出のひとつです。

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