[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝⑩マサ斎藤

私的プロレススーパースター烈伝マサ斉藤

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オリンピック代表からプロへ

今回は、日本プロレスや東京プロレスを経て、フリーランサーとなってアメリカのNWA、AWA、WWFなど各団体で実績を残しているマサ斎藤さんのご紹介です。

来年2020年は2度目の東京オリンピックが開催されますが、マサさんは第一回目の東京五輪(1964年)における日本代表として出場。フリースタイル・ヘビー級で3回戦敗退という戦績でした。

大学卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、東京プロレスに参加します。

米マットでトップヒールに!

東プロではアントニオ猪木さん、豊登さんに次ぐ三番手のポジションで戦い、一時は登記上の社長も務めました。しかし、東京プロレスは翌年あえなく崩壊します。この時マサさんは渡米を選択し、フリーランスの一匹狼の道を歩むこととなったのです。

アメリカではミスター・サイトー(Mr. Saito)またはマサ・サイトー(Masa Saito)をリングネームに、一貫してヒールのポジションで活動。レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトが高評価を受け、西海岸で長くトップヒールとして活躍しました。

晩年は病気との闘い

その後はフロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地の繁栄マーケットを転戦。数々のタイトルを獲得し、アメリカで長期に渡り最も成功した日本人レスラーとなりました。

第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよびコメンテーターとしても活躍されました。2000年よりパーキンソン病の治療を受けていること、2013年に障害者手帳の交付を受けていたことなどを明らかにし、晩年は病気と闘い続けました。

2016年12月2日、大阪市城東区民センターで行われた元新日本プロレス取締役の上井文彦さんがプロデュースする興行「Strong Style History~Go for Broke!! Forever~」でマサさんは、約4年ぶりにリングに登壇しました。

介助なしではリングに上がれないほどでしたが、海賊男(正体は武藤敬司)の強襲にナックルパートで応戦しました。

今回のガスパーの正体が武藤敬司選手であることが明かされると、マサさんとリング上でがっちりと抱擁を交わし、復活を誓いました。感動的なシーンですね。

五輪でカムバックを・・・

2017年1月18日付の日刊スポーツ紙上「東京五輪特集」で栃木県内の病院でリハビリに取り組むマサさんの姿が記事で紹介されました。

記事によれば、パーキンソン病の症状が末期状態になっていたものの、1時間のトレーニングを1日3回こなし、2020年東京オリンピックの年にカムバックすることに向けてトレーニングを毎日続けていらっしゃったそうです。

しかし2018年7月14日1時5分、パーキンソン病のためマサさんは75歳で亡くなられます。

実は私は一度だけマサさんとお会いしたことがあります。元・日本プロレスのレスラーで、海外ではカルガリーのハートファミリーのもとで、ブレッド・ハートをはじめとする数々の名レスラーを育て上げたミスター・ヒトさんの「ゆき」というお店が大阪にありました。

一度きりの邂逅

その日は確か新日本の大会後に、「ゆき」へ移動。橋本真也、獣神サンダー・ライガー、そして馳浩の連名が入った「ゆき」の提灯がつるされた玄関をくぐり、いつものように、ヒトさんの「ブレッド・ハート自慢話」を聞きながら、お好み焼きを肴にプロレス談義に花を咲かせていました。

店の引き戸が開いて、大柄の男性2人が入店してきました。それがマサ斎藤さんと、提灯を寄贈した馳浩選手だったのです。さすが気配りのできる馳選手だけあって、奥の間を事前に予約していたようで、ヒトさんの奥さんが、マサさんたちを迎え入れていました。

一流の紳士

が、あいにくちょうどお店には私たち以外にもお客さんがたくさんいて、しかも「ゆき」の店内はそんなに広くはありません。ましてやプロレス界でもヘビー級の2人が通るにはあまりに通路は狭過ぎました。

そういうわけで、我々も遠慮して椅子をなるべくひいてマサさんたちが通りやすいように、なんとか道をあけました。しかし、それでも巨漢のマサさんと私の背中がぶつかるかぶつからないか、スレスレくらいな隙間しか開けられなかったのです。

すると、マサさんが我々に「失礼!」と軽く会釈をされて、奥の間に行かれたのです。

邂逅と言ってもたったこれだけの事です。しかし、まだ20代(当時)の若造で、しかも名もなきプロレスファンとしては、あの世界のマサ斎藤に会釈された体験なんて、何ものにも変えがたい財産であることには間違いありませんでした。それは四半世紀を経た今となっても変わりはしないのです。

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