プロレス的発想の転換のすすめ(82) 手放していくことと執着すること
手放しと執着
今回は手放していく話をしたいと思います。
今までの人生を振り返るに、ずいぶんと長い間いろいろなものを手放せず、むしろしつこいくらいに執着してきたなあと思います。
アウトプットに抵抗
モノでもヒトでも想い出でも、とにかく手元においておきたい。頭の中から出したくない。
その思いが強すぎて、実はアウトプットという事にものすごく抵抗を感じて生きてきました。
大切に保管されてきたのか?
こうした記事とかは抵抗を感じつつも、自分の中からあふれ出てきたものが形になってでてきたもの、とお考え下さい。
でも、それらが私の中で本当に大事に保管されてきたのか?といったらそうではないのです。
間違いなく大切なもの
むしろ割と粗末に扱っていたので、自分自身でも長いこと疑問に思ってきたわけです。
大切なものをなぜ粗末に扱うのかと。本当は大切ではないのではないかと。
よくよく振り返ってみると、自分が生きがいと言っているプロレスやアニメとか映画などはまさに私にとって自分の中でまさにどういう形にしろ分けられざるものであって、間違いなく大切なものではあるのです。
粗末に扱ってきた自分の命
ところが、私はもっとも大切なものであるはずである「自分の命」を割と粗末に扱って生きてきました。
もともと死にたいと思って生きてきた私のような人間が、自分を大事にする生き方をしていたら大いなる矛盾ということになります。
人間の命は有限
ですから、自分を大切にするという習慣が、私には身についていないのです。
そう考えていくと私の執着の中には間違いなく、生きがいというものに対して大切に思う気持ちがあることは間違いないと思うのです。
しかしながら人間の生命には限りがあります。
呼び覚ます記憶
特に知的財産は外に出していかない限りは、価値も生みませんし、私の命が尽きた瞬間に朽ちてなくなってしまいます。
これこそまさに宝の持ち腐れというやつですね。
さすがにこれは自分でもどうにかしたいなあと思うようになってきました。
アウトプットの一つ
このブログのウリのひとつでもある長~い、長~い観戦記なども、私が試みているアウトプットのひとつですが、観戦記の内容はあくまでも私が観戦した大会に限られるので、私が蓄積してきた様々な体験や知識、見分といったものは別な形で残す必要に迫られてきました。
それがこうしたコラム風の記事であったりもするのです。
観戦以外のプロレス
当然ですが、プロレスというのは観戦以外でもいろんな形で触れることができます。
たとえば引退した選手のお店に行けばそこでしか得られない体験もできますが、それは観戦記という形では表現しにくいところです。
知識や体験のデトックス
このブログでいろいろなジャンルわけをしているのは、いろいろな紐づけとして自分の記憶を呼び覚まして記録しておきたいと思っているからです。
そういう意味では、このブログを観戦記にとどまらず、様々な形で残しておくことで、自分の内部にある知識や体験のデトックスができたら、というのが今の私の願いなのです。