【マイストーリー】第二章・【衝撃】寝たきりから心理カウンセラーになった男の物語

寝たきりから心理カウンセラーになった男の衝撃の体験談

【マイストーリー】第一章・死にたいと思っていた私がプロレスに救われた話
死にたいと思っていた私がプロレスに救われた話を赤裸々に綴ります。小学生からいじめられ、アニメ感想文で炎上し、営業職で失敗した私が、プロレスとの出会いで目覚めた怒りと希望を語ります。人生の苦難を乗り越える方法を知りたい方は必見です!

はじめに

私は30歳で職を失い、コンビニのバイトから再スタートしました。しかし、その後も苦難が続き、40歳で寝たきりになりました。そこから奇跡的に回復した私は、自分の心の仕組みを学ぶために心理カウンセラーの養成学校に通うことにしました。この記事では、私がどのようにして寝たきりから心理カウンセラーになったか、その過程で得た気づきや学びを紹介します。

30歳で職を失い、コンビニのバイトから再スタート

私は30歳で職を失いました。11年半働いていた会社が突然閉店するという通達を受けたのです。その時点で私は正社員として働いていました。

そもそも私は前職退職時に「こんなんじゃだめだ」と思い、自分を鍛え直そうとしました。

そしてはじめたのがコンビニのバイトでした。

当時は転職にも年齢制限があって、30歳を超えた人間を募集している求人はほとんどありませんでした。何とか面接にこぎつけた仕事も、結局採用されることはありませんでした。

コンビニのバイトを始めたのも、一から自分を鍛え直すつもりでしたが、思わぬトラブルに見舞われました。私を雇った店長がすぐに退職し、ベテランのバイトも次々と辞めていきました。残ったのは私一人でした。新しく来た店長は仕事の経験もなく、結局社会人経験が長い私が入店半年で実質新人の教育係として店のすべてをサポートすることになりました。

40歳で寝たきりになり、新薬で一時的に回復

しかし、この実質副店長状態になってもシフトが増えるばかりで給与は上がらず、生活はどんどん苦しくなる一方でした。やっと正社員になったと思ったら、給与は固定給となり手取りは減ってしまいました。その上、人件費削減でバイトのシフトを大幅に減らされたため、朝夜問わず店に出ずっぱりになってしまいました。

結局、バイト時代を含め11年半働いた職場はパワハラ社長の一存で閉鎖され、私は再び無職になりました。

最初に求職活動してからさらに10年が経過して、再就職はますます困難を極めました。

面接に行けども行けども一向に受かる気がしないのです。私はすっかり自信を失っておりました。

このような状況でもはや何のために生きているのかわからない状態のときに、突然猛烈な吐き気が私を襲いました。ほどなく寝たきりの状態になりました。40歳を迎えたばかりのころのことです。

診断の結果、私はうつ病といわれました。そこから今も続く通院生活がスタートするのです。

鬱発症から2年間は、天井だけを見つめ、栄養は点滴だけという生活が続きました。

原因を周りのせいにばかりして過ごしていました。自分を首にした会社が悪い、自分をこんな目に合わせた人間が憎いと思っていました。頼みの綱の医師にすら不信感と疑念を抱いていました。

転機はそんな中で訪れました。いろいろ試されていた新薬の中で一種類劇的に効果が出たものに出会えたのです。これによって私は寝たきり生活から一時的に解放されたわけです。しかし解放されただけで、矛盾した感覚の問題はそのまま放置していたのです。ご飯は相変わらずのどを通りませんでしたし、数時間は外に出ても平気でしたが、長時間の活動、ましてや勤務などというのも夢のまた夢でした。こういう状況で働き口を探せと言われても正直困り果てるしかありません。

心理カウンセラーの養成学校に通って自分と向き合う

このように長い間寝込んでいる間、一向に成果を出せない私を両親が厳しく叱責してきました。寝てる暇があるなら何か資格を取れというわけです。最初は「ボイラー技士」の免許をとらされそうになったのですが、それには激しく抵抗しました。

結局パソコンの基金訓練に通うことになりました。しかし、そこでも他の受講生との軋轢に悩まされました。ここでも味方は誰もいませんでした。卒業すれば少ないパイを奪い合う敵同士です。仲良くできるはずもありませんでした。

失意の中、次の展開を考えねばならず途方に暮れていた時に一枚のチラシと出会います。それが心理カウンセラーの養成を行うという、後に私が通う学校のものでした。ここでやっと自分と本気で向き合う必要性を痛感したわけです。もっとも最初の動機は「このまま薬を飲んでいてもいいことないから、自分の心の仕組みを知って再発も防いでいけたらいいな」というものでした。

これは今もなお現在進行形で続けています。

カウンセリングで変わった私の人生 – 働かないカウンセラーの告白

私はもともと「続けられる」ことが得意でした。好きなことなら寸暇を惜しんで続けられますし、嫌いなことでも続けられます。しかし、それは必ずしも良いことではありませんでした。自分の気持ちに無頓着で、周囲に流されて生きていました。

そんな私がカウンセリングを受けるきっかけになったのは、民間のカウンセラー学校に入学したことでした。

学院ではカウンセリングのやり方を主に学んでいました。そこではそこでは個人カウンセリングを受け付けていました。授業は月2回3時間の二コマずつでした。それほど負担にならないと思っていましたが、現実は結構厳しいものでした。

カウンセリングで衝撃的だった体験 カウンセリングルームでは、学院の先生が個別に対応してくれます。私は最初から特定の先生に指名されていました。その先生はハグを使うセラピーを用いていました。これは、文字通り先生とハグすることで心理的な安心感や愛着感を得ることを目的としたセラピーです。

私はそれまでスキンシップというものがすごく苦手で握手するのも嫌悪感をもっていました。しかし自分と向き合ってこなかった私は、自分にそういう苦手意識があることすらわかっていませんでした。もちろんハグに関しては私も了承したうえで行ったのですが、いざやってみたら何とも言えない気持ち悪さでいっぱいになったのです。実はのちにハグというのは、愛着形成に欠損のある私のようなタイプには効果的であると同時に結構「劇薬」であることも知りました。

私の場合、ハグは劇薬だったわけです(余談ですが、現在のカウンセリングではハグをしないことが一般的になっています)が、これによって薄皮をはがすかのように、ていねいに自分の問題と向き合って解決していく、とても辛抱のいる時間のかかる作業になることを、私は覚悟したのです。ハグの体験に関してはそれ以降ほぼなかったのですが、薄皮をはがすたびにいろんな問題が浮上してきては、その都度大変な目にあっていきました。

カウンセリング体験の中でもう一つ忘れられない出来事があります。

ある日カウンセリングを終えて、事務局の方と先生に礼を言って、私は学院の外にでました。

当時学院は古いビルの最上階にあり、夜になると階下のテナントは営業を終了しており、階段は真っ暗でした。

もちろんエレベーターなんかありません。普通なら学院に戻ってあかりをつけてもらうように頼むところですが、その時の私はなぜかそのまま階下に降りていきました。

階段はかなりの急傾斜で一歩踏み外せば大けがにつながっていたでしょう。

しかし、幸いなことに私は壁を伝ってどうにか一階まで降りきりました。

ところが一階入り口にはシャッターが降りていて、自分では開けられません。ここではじめて私は学院に電話して「SOS」を発信しました。

本来なら階段が真っ暗な時点で引き返せば大事に至らなかったはずなのに、この時の私は「自分でなんとかしなければ」と思い込んでいたのです。

この感覚は、自分自身との闘いの中で向き合い続けています。しかし、その闘いを通じて私は自分の人生を切り開きはじめたような気がしています。

働かないカウンセラー – 自分らしく生きるための宣言

私はカウンセラーとしての資格を持っていますが、それはあくまで自分のためのものです。私はあなたにカウンセリングを提供することはできません。私はあなたに何かを教えることもできません。私はあなたに何かを期待することもできません。私はあなたに何かを強制することもできません。

私はあなたが自分らしく生きるために必要なことは、あなた自身が見つけ出すことだと思っています。私はただ、その過程であなたの味方でありたいと思っています。私はあなたの人生に干渉することはしません。私はあなたの人生を尊重します。

私は私のために生き続けていくでしょう。私は私として。それが働かないカウンセラーという選択です。

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【マイストーリー】第三章・【衝撃】激化する介護地獄
私は40代でうつ病になり、自分の人生に絶望していました。その上、両親も高齢化して介護問題に直面しました。父は脳出血で倒れ、母は認知症になりました。コロナ禍で面会もできず、両親の介護に追われる日々が始まりました。私は心身ともにボロボロになっていきました。この記事では、私が経験した介護地獄の実態と、認知症の親を守るために今すぐやるべきことをお伝えします。
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