【マイストーリー】第三章・【衝撃】激化する介護地獄

【衝撃】激化する介護地獄

【マイストーリー】第二章・【衝撃】寝たきりから心理カウンセラーになった男の物語
40歳で寝たきりになり、新薬で一時的に回復した男性が、心理カウンセラーの養成学校に通って自分と向き合うことを学びました。彼がどのようにして人生を変えたか、その過程で得た気づきや学びを紹介します

ここまで

私は40代でうつ病になり、自分の人生に絶望していました。その上、両親も高齢化して介護問題に直面しました。父は脳出血で倒れ、母は認知症になりました。コロナ禍で面会もできず、両親の介護に追われる日々が始まりました。私は心身ともにボロボロになっていきました。

そんなとき、私はヨガと出会いました。ヨガで身体を動かすことで、痛みや睡眠の改善、脱力効果を実感しました。ヨガで心を落ち着かせることで、自分と向き合うことができました。ヨガで自分の生きたいように生きることを決意しました。

この記事で私の話が少しでもあなたの参考になれば幸いです。

ヨガで身体に刻まれた記憶を解放する方法

私は長い間運動を医師から禁止されていました。しかし、2017年3月ごろに「軽い運動」から許可がおりました。そのタイミングでヨガの師匠と出会い、体験入学したのです。

最初は運動から離れていたブランクで、今なら楽勝で出来るポーズでさえ、悪戦苦闘していました。そして、想像以上に自分の身体に余分な力が入りすぎていたことに驚かされました。自分はリラックスしているつもりが、無意識のうちに身体を強張らせていたのです。

これは自分を守るための防衛反応だったのだと思います。ストレスや緊張が原因で筋肉が硬直していることが大きな要因でした。身体を強張らせて、長い間身を守り、習慣化させてきたことは、一朝一夕では解決できない課題として、今も取り組み続けています。

痛みや睡眠の改善、脱力効果を実感したヨガの効果

ヨガをはじめて1年くらいたつと、はじめた頃よりも明らかに体調が良くなっている実感があります。具体的には、

①痛みの軽減
②睡眠の質の向上
③脱力効果

の3つが実感できています。いずれも長い間、私を悩ませてきた課題だったため、これらが改善されていることは、私にとっては無情の喜びでもあります。もっともまだ道半ばという感覚もあるので、今後も自分と向き合って、無駄な力を入れずに済むようにする。より脱力できる人生をおくるために、続けていきたいと思っています。

働かないカウンセラーとして生きる決意と自由

私は現在「働かないカウンセラー」を自称しています。これは厳密にいうと「変わる意思と覚悟がある人のためなら働いてもいい」という意味でもあります。変わる意思と覚悟のない人のためには働く気は毛頭ありません。

私の才能は「続けられる」ことです。勿論今でも好きなことなら寸暇を惜しんで続けられますし、おそらく今でも望まないこと、嫌いなことでも続けられるはずです。しかし、私はブログを通じてハッキリ好き嫌いを宣言し続けてきた結果、意にそぐわぬ依頼をことわることができるようになりました。

私はブログであらゆる気にいらないものをdisりはじめました。すると不思議なもので、今まで無反応だった周囲に「反響」がおこりました。私の書いたものを面白いとさえいっていただけるようになったのです。これは予想外でしたね。それまでは空気に等しかった私の存在がはじめて第三者に認知されたわけです。それまでどれほど望んでも、振り向いてもらえなかったのに、嫌われてやろうとしたら、振り向いてもらえたのです。

好かれようとしていないからこそ、私は自分の気に入らないものには様々な形で「NO!」を突きつけることができるようになりました。

「働くからには、気に入らないことでも我慢しなくては」とかつては私もそう思い込んでいました。しかし、それは私の思い込みでしかないわけです。自分の生きたいように生きるためなら、カウンセラーという肩書きが邪魔なら、それすら取っ払うことが今の私なら可能です。ですから、気が向けば問題支援のお手伝いもするし、気に入らないなら何もしないという選択権も私にあるわけです。私の意思と選択を変える権利は誰にもありません。

認知症のはじまり

介護はある日突然にやってきます。実はゆっくりゆっくり忍び寄ってくるのですが、目には見えないため、意識したときには大変なことになっています。

私は40代でうつ病を発症し、自分の人生にも悩んでいましたが、その裏で両親も高齢化していました。父は脳梗塞と心臓の手術を経験し、母は膝の手術を受けました。二人とも障害者となり、リハビリに通うようになりましたが、すぐにやめてしまいました。

その後、私は一人暮らしを始めましたが、母が腹痛で入院し、父が脳出血で倒れました。コロナ禍で面会もできず、両親の介護に追われる日々が始まりました。

ここからは、私が経験した介護地獄の実態と、認知症の親を守るために今すぐやるべきことをお伝えします。私の話が少しでもあなたの参考になれば幸いです。

早期リタイアした両親の社会からの断絶

私の父は50代で退職した早期リタイア組でした。母も子育てが一段落した時点で仕事を辞めたため、早くに社会から断絶し、家に引きこもるようになりました。

しかも、年金は早くからもらえており、二人とも再就職せずに長い老後の人生をスタートさせました。

しかし、一旦社会からフェードアウトしてしまうと、それまでの身体的負担が身体にでてくるようになりました。

まず父が脳梗塞で倒れ、次に立ち仕事をしていた母が膝に人工関節をいれる手術をおこないました。そして、今度は父が心臓のカテーテル手術をうけ、二人とも身体障害者になってしまいます。

この時点で両親は要支援となりましたが、私は自分のうつ病と闘っており、両親の状況に気づけませんでした。

要支援から要介護へ

やがて、両親は二人とも要支援になりました。要支援になると歩行型リハビリが可能になったため、送迎付きのリハビリ施設に通うようになりましほどなくして二人とも「思ったのと違う」と言いだして、リハビリに通うのをやめてしまいました。

本人たちの言い分では、一人一人にちゃんとした指導員がついてメニューを考えるようなサービスを期待していたらしいのですが、そうではなかったようなのです。

今にして思えば、この時点で2人が真面目にリハビリに取り組んでいたら、後々起こる悲惨な介護も多少緩和されたはずなのですが、過去と他人はかえられません。

リハビリをやめてからの両親は、加速度的に認知症状を悪化させていきました。父は怒りっぽくなった事以外は、以前とはあまり変わらないように見えました。

しかし、もともと新しいもの好きな父が、町内で開かれたパソコン講座も途中でやめ、町内会の集まりにもだんだん顔を出さなくなりました。

唯一の趣味といっていい俳句も、いつの頃からかやらなくなってきたため、人と接する機会が激減していきました。

母は母で、80歳過ぎても父の食事を用意していたのですが、いつの頃からか味付けが極端に辛くなっていたのです。

こんな食生活に刺激のない毎日、そして勉強と言いつつ一向に働く気配がない息子に対しては、日に日に風当たりが強くなり、私は包括支援センターに泣きつくことになったのです。

結局、相談員さんと話をして「介護が本格化するまで別居する」ことになり、私は大学生以来の一人暮らしを始めることにしました。

この時点で私は北九州を拠点に自力で独立開業を目指し、市内ではなく北九州に居を構えました。

正直、この時分には大学時代の快適だった一人暮らしの場面が毎夜のように夢に出てきており、その夢にまでみた一人暮らしを手に入れたことで私はまたしても問題から向き合わずに逃げてしまっていたのです。

【マイストーリー】第四章・【実録】父の脳出血、母の認知症、自分のがん…次々と襲いくる試練
この記事では、父の脳出血、母の認知症、自分のがんという介護と闘病の地獄に陥った筆者が、どのようにしてその苦難を乗り越えたかを実録としてお伝えします。介護と闘病の地獄は誰でも陥り得るものですが、必ず乗り越えられるものです。この記事が、同じような境遇にある方々の参考や励みになれば幸いです。
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