プロレス的随筆徒然草(3)プロレスは何と戦うべきなのか
過去は美化され、現在は・・・
今回は非常にざっくりと「プロレスは何と戦うべきなのか」について考えてみようと思います。
「昔はよかった」「いまどきの若いもんは」とかいうフレーズは、いつの時代にもついてまわるもんです。
これはプロレスでも同じで、過去は美化されやすく、現在は批判されがちです。
世間と闘う必要
真剣勝負と信じている人が多かったと言われる昭和のプロレスですが、当時、まだ世間的影響力があった大手新聞が既に、プロレスをいわゆる真剣勝負のカテゴリーから外していました。
したがって、当時のプロレスファンはプロレスを紛い物だとする世間と闘う必要がありました。
昔より低いハードル
これが多様性の認められた現代ですと、プロレスも一つの趣味として認知されるわけです。
よって現代はプロレスに対するハードルが昔よりは低いと言えるかもしれません。
世間という敵が
私は多様性が認められている現在は、ことさら趣味を隠す必要もそれほどなく(まだ、大っぴらにカミングアウトするほどではないかもしれませんが)、昔に比べたら生きやすい時代になったな、と感じています。
ただし、多様性が認められた世界では、プロレスという旗のもと、共通認識できる「世間」という敵がいなくなってしまったとも思っています。
プロレスに無関心
猪木さんが生涯をかけて「首根っこを捕まえて振り向かせたい」世間は、今ではある意味では物分かりがいい、ある意味ではプロレスに無関心な存在になってしまったのです。
つまり、現在ではプロレスラーは対世間という強大な敵を失ってしまったために、環状線の中だけでストーリーを完結せざるを得ず、時と共にスケールダウンしてしまったのではないか?というのが、私の見立てです。
いかがわしいジャンル
もちろん無関心な層は昔からいましたし、そこに訴求するべく、あらゆる手段を講じて、猪木さんが情熱を燃やしていた時代に比べると、明らかに、現代のプロレスにはもの足らなさがあると思います。
プロレスはそもそも定義不能な謎めいたいかがわしいジャンルでした。
格闘技としてみようが、競技スポーツとしてみようが、演劇としてみようが、八百長としてみようが、解釈は常に観客へ投げかけられ、その謎解きに我々オールドファンは時に熱くなりながら、議論し合ったのも今となっては懐かしい思い出です。
カタルシスより不満が
時代や現実社会の閉塞感を突き破るカタルシスは昔の方があったのに、今はそうではない、という意見も目にした事があります。
ただ、特に昭和の時代はほとんどの試合が不透明決着で終わっていたため、どちらかというとカタルシスより不満の方が溜まりまくっていたといえるでしょう。
90年代からの傾向
それだけにたまに実現する完全決着がより引き立つため、後世にまで語り継がれるようになったのではないか、と思っています。
プロレス界全体が完全決着に舵を切り出したのは、90年代に入ってからなので、少なくとも昭和プロレス全盛期はむしろ不透明決着こそがプロレスだったのです。
時には暴動も
このためにためた不満が爆発して、時には暴動も起きましたが、それだけファンも熱くて本気だった事は間違いないでしょう。
もちろん会場を破壊したり、放火したりは昔でも犯罪ですから、暴動を肯定する気はありません。
記憶に刻まれた
実際、この時期は会場に行くのが怖くて、なかなか私は生観戦にいけなかった思い出があるくらいです。
したがって、昔のプロレスは今のプロレスよりカタルシスがあった訳ではなく、たまにでかいカタルシスが得られた分、記憶に深く刻まれたのではないでしょうか。
常にガス抜きされた
しかし、完全決着が定番化してしまうと、カタルシスはその場で解消されてしまうため、観客は常にガス抜きされた状態で帰宅することになります。
そりゃ安くないチケット代払って、憤懣やる方ない思いで帰るよりは、はるかに誠実かもしれませんが、その分プロレスファンの不透明決着に対する耐性は、昔より弱くなってしまった感じはしています。
本当はいいひと
それに加えて、昔のように悪役が観客から怖がられなくなり、なんなら「本当はいい人」認定されてしまう事態が起きています。
だからといって、これだけコンプライアンスに厳しい世の中になると、目が合っただけで悪役レスラーが観客に襲いかかるという事もやりにくいわけです。
自由度は低くなった
プロレスがエンターテインメントとして受け入れられたのは、一概に悪いことばかりではないのですが、明らかに自由度は昔に比べると落ちている印象があります。
残念ながら、アメリカのように、ブーイングも含めてお客さんが本気で楽しむ文化が日本に定着するのは、難しいでしょう。
何処かしらに
WWEほど完璧にエンターテインメントと向かい合い、昇華させた団体ですら、何処かしらにローカライズが必要になるのが日本の文化だと私は考えています。
もっとも熱心なWWEユニバースは絶対本場の純度100%のショーを期待しているとは思いますが、一般層に届けるにはやや敷居が高い気がします。
WWEみたいな存在は
もちろん、英語圏ではないというハンディはあるにせよ、根本的な国民性や文化の違いはいかんともしがたく、日本のプロレスがエンターテインメントへ完全に舵を切れない要因になっているのではないでしょうか。
そう考えていくと、日本のプロレス界からWWEほど突き抜けた存在は生まれ得ないでしょうから、あちらみたいにカミングアウトして、エンターテインメントに振り切るのも難しいのではないでしょうか?
決して絶滅しない
そもそも仮に「本当はこうなんですよ」と種明かししたところで、日本に根強く残る真剣勝負至上主義はなくならないでしょう。
結局カミングアウトしようがしまいが、どこかしらにプロレスを下に見る層は絶滅しないし、八百長論も消え去らないと私は予想してます。
真剣勝負にもエンタメにも
ですから、日本のプロレスは真剣勝負にもなれないし、エンターテインメントにも振り切れないのではないでしょうか?
ましてや、新日本プロレスのように、これまで築き上げてきたレガシーごと知的財産として商売しているのであれば、余計にカミングアウトなんかできるわけありません。
ゆがんだ構図
しかし、リング上の試合は明らかにエンターテインメントに擦り寄っているため、過去に新日本が積み上げてきた歴史との整合性がとれなくなって、古参からは批判され、その古参ファンを新規ファンが更に叩くという歪んだ構図が出来上がってしまっているわけです。
かつてプロレスにあったはちゃめちゃな自由さが奪い取られたと感じているであろう古参ファンは、結局今のプロレスに対する不満を抑える事はできないでしょう。
負の連鎖
そんな老害ファンから見た今のプロレスは、強制され監視された演技と批評のこじんまりとした世界にみえてどうにも我慢ができないでしょうか。
そこで「嫌ならみるな。見もしないで文句を言うな」と新規ファンは不快感を示して、世代間断絶を生んでいくという負の連鎖がおきているわけです。
非生産的対立
これは非常に不毛であり、非生産的な対立で、プロレス界には何の貢献もしない争いになっています。
かつては、人間離れした怪物として畏怖されたプロレスラーは、いつしか萎縮しながら社畜として延命している小さな存在になってしまったのかもしれません。
それでも希望は
現代のレスラーがそう見えていると、古参のファンは何のカタルシスを味わうこともできなくなっているのだと思います。
では、行き場をなくした古参ファンを救う場所や団体を、今のプロレス界に求めるのは無理なんでしょうか?
私はまだそれでも希望があると思いたいのです。
プロレス界が変わるためには
狭いプロレス界の中でしかおきないコップの中の渦を、何とか環状線の外に届けるにはどうしたらいいのか?
物分かりがよくなりすぎた世間、昔と変わらず無関心を決め込む世間の首根っこを捕まえて、振り向かせられるレスラーが現れたら、多分プロレス界は大きく変わっていくでしょう。
可能性はまだある
これだけ長い歴史を紡いできた日本のプロレスには、エンターテインメントに振り切ったアメリカとは異なる方法論で勝負できる可能性はまだあると私は信じたいのです。
野球界における大谷選手のような規格外のスーパースターが1人で景色を塗り替えるのか?
はたまた総合格闘技につながる道を作り出したUWFのような運動体がその役割を担うのか?
DDTの成功は
いずれにせよ、エンターテインメントの土俵で日本のプロレスがWWEに勝てるとはどうしても私には思えません。
DDTがある程度成功しているのは、日本のプロレス界におけるカウンターカルチャーのような存在にまで上り詰めたからだと私は考えています。
キーマン竹下幸之介
しかし、近年のDDTはメジャーにもそんなにいない巨漢タイプの選手が、メジャーを食いかねない迫力ある試合を見せてもいます。
その際たる例がAEWでも活躍している竹下幸之介選手だと思っています。
エンタメの部分は保持したまま
もちろんDDTは、土台であるエンタメの部分は保持したまま、敢えて勝負論の土俵にも上がってきている点が非常に興味深いところです。
竹下選手や、DDTはあくまで私が想定した一例でしかありませんが、もしかしたら、全く異なるアプローチで突然変異な選手や団体が生まれるかもしれません。
これからのプロレスに期待
いずれにせよ、行き詰まった現状を劇的に変えるにはスーパースターの登場は必要不可欠です。
だからこそ、私は懐古趣味で古のプロレスをただ称賛するのではなく、何がおきるかわからない「これからのプロレス」にも大きな期待を寄せているのです。