プロレス的発想の転換のすすめ(69) 闘いの記憶と今を生きる意味
プロレスと歩んだ半世紀
プロレスと関わりだして半世紀近くにもなると、いろいろなことがあります。
そのすべてに後悔がないといったら嘘になります。
でも今さら時間を巻き戻すことはできません。
さまざまな後悔を経て、やっと「今ここ」で生きる意味を痛切に感じている今日この頃です。
プレッシャーに入会して
1992年。週刊プロレスの投稿常連会「プレッシャー」に入ったからといって、劇的に生活が変わったわけではありませんでした。
そもそも狭い世界の中でちょっと名前が知られた程度ですし、私が入会した当時は中国地区に私しか会員がいないありさまでした。
誰かに会おうと思ったら最低でも博多に行かなければならなかったのです。今回はその博多で私がやらかした失敗談をお話しします。
ルチャの聖地へ向かう道
場所は西の聖地、博多スターレーン。
当時はルチャ・リブレ(メキシコ式プロレス)の聖地と呼ばれていた会場です。
目的は日本初のルチャ専門団体として誕生した「ユニバーサルプロレス(ユニバ)」の観戦でした。
伝説の豪華メンバーたち
ユニバーサルプロレスとは、グラン浜田さん、マスクマンになる前のウルティモ・ドラゴン選手、若手だったころの邪道・外道両選手、のちにnWoでセンセーショナルなブームを巻き起こすXパック選手。
さらに若手時代のディック東郷選手、ザ・グレート・サスケ選手、スペル・デルフィン選手、新崎人生選手……といった、今ならオールスター戦でもできそうなメンバーが集結していました。
これに本場のルチャドール(メキシコのプロレスラー)が参戦する非常に豪華な布陣で、本場のルチャリブレを堪能させてくれた団体です。
終電が迫る博多の夜
しかし、この観戦時はそろそろその勢いに陰りが見え始めていました。
全体的にどんよりした感じで終わったこの日の大会後、皆で集まって食事会をやることになりました。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、意外に早く終電の時間が来てしまいました。
新幹線での思わぬ誤算
実はこれまで自分の運転でスターレーンまで来ていたのですが、このひとつ前の観戦で接触事故をしてしまい、自信を失っていたので、この日は初めて新幹線で新下関から博多に来ていました。
当時から、新下関行きは22時20分付近が終電です。
プロレスの大会はだいたい早くて20時半くらいに終わっていましたから、それほどゆっくりはできなかったのです。
深夜の駅で起きた迷走
前置きが長くなりましたが、本題はやっとここからです。
実は30年前というのは今ほど博多駅周辺は明るくなく、駅の方向すらわからない状態でした。
余裕で店を出たはずの私は見事に迷ってしまい、うろうろした挙句、ギリギリで博多駅に到着しました。
回送列車への予期せぬ乗車
ホームで息を切らせながら係員の人に「この列車は下関に行きますか?」と尋ねると「行きますよ」との返事。
座席についてホッとしたのも束の間、いきなり電気が消えました。
「何か変だぞ?」とは思いましたが、まもなく列車は動き出しました。しかし、やはり様子が変です。
運転席で過ごした異例の時
まもなくすると乗務員さんが来たので、先ほどの顛末を話すと「この列車は回送ですよ」と言われました。
「えええ!?」しかし、私は聞き間違いでもなく、確かに言われた通りに乗っただけです。
でも乗務員さんいわく「その人はJRの人間ではない」というだけでした。当時は博多南駅がなく、博多駅が最終で回送というパターンは割とよくあったのです。
結局、座席に座っていても仕方がないということで、なんと運転席に入れてもらいました。
後にも先にも新幹線の運転席に入ったのは、これが最初で最後です。
絶体絶命のタクシー帰宅
そして現・博多南駅の山陽新幹線博多総合車両所で降ろされ、そこからタクシーで博多駅に戻ってみると、もはや小倉へ行く最終列車も終わっていました。
仕方なく精算所で帰りの切符を払い戻してもらいました。
間が悪い時はこんなものですが、一泊できるお金も持っていませんでした。
当時は24時間引き出せるATMなんて存在していませんでしたから、やむを得ず自宅の両親に連絡して、タクシーで帰ることを伝えました。
電話口ではえらい剣幕で怒られましたね。
サービスエリアでの再会
そうしてタクシーで下関へ向かう中、私に同情してくれた運転手さんが途中のサービスエリアで飲み物をおごってくれました。
自動販売機で何にしようか物色していたら、隣にとても体格のいい人が並びました。それは博多大会を終えて車で移動中だったユニバのSATO選手(現:ディック東郷選手)でした。
厳鉄魁というリングネーム時代は素顔でやっていましたが、SATO選手は本来、覆面レスラーです。
プライベートでもありますし、話しかけるのは遠慮しました。SATO選手の様子からすると、メキシコ人選手(こちらも当然素顔)からお使いを頼まれていたようで、缶飲料をたくさん抱えて戻っていかれました。
30年越しに叶った結末
この時のことを、2011年になってやっとSATO選手本人、つまり今のディック東郷選手に伝えることができました。
東郷選手は大変驚かれていましたが、記念写真にも快く応じてくれました。
ここでやっと、私の失敗談は成就したのでした。この話も当時は毎日のように自分を責め続けていた失敗談でしたが、多くの方に話したり、こうして文章化したりすることで、いい思い出にすることができました。
今ここで生きる意味
長いことプロレスを見ているといろいろなことがあります。時には一生ものの後悔もするかもしれません。
しかし私のように、いつかはいい思い出にしていくことも可能ではないかと思うのです。
プロレスは、何度倒されても立ち上がり、最後にはスリーカウントを拒んで明日へと繋ぐ物語です。
私の人生におけるあの日の失敗も、今の私に繋がるための「受け身」だったのかもしれません。
過去を悔やむのではなく、その痛みすらも抱えてリングに立ち続けるレスラーのように、私もまた「今ここで生きる意味」を噛み締めながら、明日のゴングを待ちたいと思います。
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