若手三羽烏”ハル薗田さんの生涯と影響 – プロレス界の名バイプレイヤー
ハル薗田さんの若手時代
今回は渕正信さんや大仁田厚選手と共に「若手三羽烏」と呼ばれ、若手のコーチも手がけていたハル薗田さんのお話です。
ハル薗田選手は、1956年9月16日に宮崎県小林市で生まれ、1975年1月15日に全日本プロレスでデビューしたプロレスラーです。
1979年からは海外修行に出て、ハル・ソノダやマジック・ドラゴンというリングネームで活躍しました。1984年に帰国後は、ハル薗田として全日本プロレスのバイプレイヤーとなりました。
最初で最後の生観戦
私は1987年10月23日に初めて全日本プロレスの大会を観に行きました。
もともと山口県では全日本プロレスの中継をやっておらず、一旦ゴールデンタイムで復活したものの、放送時間が深夜帯に移ると、また観られなくなりました。
ですから、全日本プロレスの歴史や魅力をどうしても知りたかったし、知ることで、全日本プロレスの選手や試合に対する感動や評価も変化していきました。
ただの中堅選手
例えば、私はかつてハル薗田選手に対して「ただの中堅選手」というイメージしかありませんでした。
しかし、小橋建太選手らをコーチしてきたこと、何より全日本を初めて見た下関大会で薗田選手の活躍が素晴らしかったこと、当時結成したばかりの天龍同盟対全日本軍の試合で、決して埋もれなかったことで、私は薗田選手に対して感嘆や賞賛を抱くようになりました。
事故とその影響
残念ながら、薗田選手は1987年11月28日、新婚旅行を兼ねた南アフリカ遠征の途上で南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇し、夫婦で事故の犠牲となってしまいました。31歳という若さでした。
そのこともあって、薗田選手の雄姿はいまだに私の中から消えてなくならないのです。
マジック・ドラゴンとしてのハル薗田さん
さて、ハル薗田さんには、マジックドラゴンというマスクマンとしての顔があります。
米国修業時代、薗田さんはアメリカ遠征時には食えなくてバイト生活をしていたことがあったそうです。
マジックドラゴン誕生へ
カブキさんが連絡を取ると実は生活に困窮していると薗田さんが明かしたので、じゃあ、NWAエリアにこい、ということになって、そこでマスクマンとしてやっていくことになった薗田選手をマジック.ドラゴンにしたのがカブキさんだったそうです。
あのマスクはカブキさんが作ったんですね。
ハル薗田さんの全日本プロレスでの活躍
こうしてハル薗田さんは、1982年4月、フリッツ・フォン・エリックさんの主宰していたテキサス州ダラスのWCCWへの参戦を機に、覆面レスラーのマジック・ドラゴンに変身し、1984年の帰国後も、ジャイアント馬場さんの付き人を務めながらマジック・ドラゴンとして活動を続けますが、1985年6月5日、小林邦昭さんとのマスクと髪の毛を賭けたコントラ・マッチで敗退し、覆面を脱いで素顔に戻りました。
その後、デビュー当時の「園田一治」名義で数試合に出場した後、6月10日からリングネームをハル薗田に改名し、6人タッグなどで時折メインイベントにも出場し、バイプレイヤーとして活躍したのでした。
ハル薗田さんの得意技
ハル薗田選手は、スライディング・キックやパイルドライバーなどの得意技を持っていました。
スライディングキックの元祖は実をいうとハル薗田さんなのです。
リング脇にいる相手に向かってダッシュし、スライディングしながら一番下のロープとマットの間から足を突き出して相手を蹴飛ばします。
継承された得意技
蹴る際に薗田さんはよく「キェーーー!!」という奇声を発し、これが出ると「それまで静かだった観客も必ず沸いた」と同僚のベテランレスラー達が述懐しています。
後にこの技は抗争で何度も食らった小林邦昭さん・三沢光晴さん・浅子覚さんが受け継いでいます。
薗田さんの人間性
無骨な顔立ちながらその率直な性格が愛され、周囲からは「ゴリ」の愛称で可愛がられました。また、馬場さんの信頼も厚く「ゴリに言っておけば、全日本プロレスの全員に誤解なく伝わる」と薗田さんを評していました。
夫婦揃って南ア航空295便墜落事故に巻き込まれる一因となった南アフリカ遠征は、馬場さんが当時南アフリカでブッカーとしても活動していたタイガー・ジェット・シン選手の要望に応えたところから遠征が決まったものでした。
そして事故に・・・
薗田さんの仲人でもあった馬場さんは「新婚旅行も兼ねて」とブッキングして航空券を渡したのは自分であり、この事故から後々に至るまで強い自責の念に駆られたと自伝に残しています。
なお、本来航空券は東京発パリ経由であり、1987年11月25日に成田空港でチケットをピックアップしようとしたがチケット自体が無く、相手プロモーターの手違いで台北経由のチケットを送ってきたそうです。
当初はカブキさんに
また、この南アフリカ遠征は当初、ザ・グレート・カブキさんに声が掛かったものをカブキさんが断ったため、薗田さんに話が回ったと後年にカブキさんご本人が回顧しています。
薗田さんの事故事後、1987年12月16日、後楽園ホールで「ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー」が開催されました。
追悼セレモニー
告別の辞を述べた馬場さんは、遺影を前に涙が止まらず絶句しました。
まずは弟子たちによる追悼試合が行われ、その後10カウントゴングと共に1分間の黙祷が捧げられました。
新日本プロレスでも1988年6月6日に宮崎県の小林市市民体育館で興行を開催した際、小林市が薗田の地元ということもあって追悼を行っています。
第1試合に先立って選手全員が登場し、30秒間の黙祷が行われました。
薗田さんの功績
薗田さんがコーチを兼務していた時期に、デビュー前の田上明さん・北原光輝さん・小橋建太さん・菊地毅さんらを指導しています。
小橋さんと菊地さんは本デビューに先駆け「ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー」で行なわれたバトルロイヤルでデビューしています。
名バイプレーヤー
かつての教え子が多く在籍しているプロレスリング・ノアでは、2007年に実施された若手選手のリーグ戦は薗田さんの遺志を汲み、薗田さんが乗った飛行機が墜落した場所であるモーリシャスにちなんで「モーリシャス杯」と名付けられています。
このようにハル薗田さんはプロレス界に多大な影響を与えたレスラーの一人と言えるでしょう。こういう名バイプレイヤーがいなくなった現在のプロレス界は何かもの足りない気がしてなりません。改めて薗田夫妻のご冥福をお祈りいたします。