プロレス想い出回想録 ・プロレスと街の記憶をたどる② 50年の時間が紡いだ、師弟と街のストーリー
【序章】旧・下関市体育館が刻んだプロレスの鼓動
下関市体育館(以下・旧体育館と表示)は、1963年(昭和38年)9月1日に開設と、何せ古い建物だったこともあり、古くは日本プロレスが使用した前歴があります。
ただし、それは力道山時代ではなく、BI砲がエースとして活躍されていた時代だったようです。
【若き日の衝動】藤波辰爾、運命の“押しかけ入門”
ここに半ば押しかけ入門する形でプロレス界に飛び込んだのが、今でも現役選手として活躍する藤波辰爾(辰巳)選手でした。
中学卒業後、地元の自動車整備工場に就職しましたが、プロレスへの夢を断ち切れず、1970年に別府温泉へ湯治に来ていた同郷である日本プロレス所属のプロレスラー北沢幹之さんに直談判します。
北沢さんから同年6月16日に日本プロレスの興行が行われる下関市体育館(山口県下関市)へ行くように言われ、旧体育館にて、猪木さんと初対面を果たします。
藤波さんはそのまま巡業について行った後に、日本プロレス幹部と面談を行うために上京して日本プロレスに入門し、憧れていた猪木さんの弟子となりました。

【静かな凱旋】“デビューの地”でありながら
新日本プロレスに移ったあとも、藤波さんは何度も下関市体育館で試合を行ってきましたが、デビューの地であっても、故郷凱旋ではないせいか、旧体育館で大々的な大会が開かれる事はありませんでした。
【終幕の気配】旧体育館の閉館と次代へのバトン
旧体育館は老朽化に加え、1981年に改正された建築基準法の新耐震基準に対応するのが難しいことから、下関市は隣接地に新体育館(下関市総合体育館)を整備することになり、同体育館の竣工により2024年(令和6年)7月末で閉館しています。
解体・撤去後は陸上競技場と兼用の駐車場に転用されていますが、駐車場には記念プレートが埋め込まれています。
【節目の祝祭】藤波辰爾デビュー50周年という大きな節目
さて、そんな縁深い藤波さんが自身のデビュー50周年を飾ったのが2022年でした。
藤波さんの弟子である竹村豪氏(選手)が中心となり、2022年12月16日に「藤波辰爾デビュー50周年記念プロレス大会」が開催されました。

この時すでに旧体育館は閉館が決まっていましたし、2022年3月には隣接地にJ:COMアリーナ下関(下関市総合体育館)が着工済みだったため、この大会が旧体育館最後のプロレス大会でした。
【若き志】師匠のため、下関のために立ち上がる竹村豪氏
竹村選手は当時、「この思い出の地である下関市体育館が無くなる前に、(師匠に)50周年記念の試合をしてもらうことに価値があると考えております。」と語り、今回の大会を皮切りに、来年4月には下関市を拠点としたプロレス団体の立ち上げを目指していたそうです。
しかし、竹村選手が2023年2月3日に行われた下関市議会議員選挙にれいわ新選組公認で立候補し、初当選した関係から市議会議員の仕事も多忙になり、団体旗揚げは現在のところ実現していません。
【細く続く炎】それでも絶えない“下関プロレス”の灯
ただし、団体としての活動ではありませんが、2024年5月4日に巌流島フェスティバルの一環としてプロレスの試合が行われており、2025年11月16日に行われたNJPW「SHIMONOSEKI IMPACT~海響決戦~」では、負傷したエル・デスペラード選手の代打で竹村選手がメインイベントに登場しています。

【再出発の導火線】みやぞんとの縁とテレビ出演
竹村選手はプロレスデビューしたての頃はそれだけでは食べていけず、運送会社でアルバイトしており、その頃に中学時代のANZEN漫才のみやぞんさんと出会い、プロレス技を教えていたこともあったそうです。
そのみやぞんさんが私を探しているというテレビ局からの突然の連絡で「あいつ今何してる!」等の出演がきっかけでプロレス復帰の話が出たのが2018年10月のことでした。
【帰郷と復帰】下関で根を張った男の選択
もともと新日本プロレスにも在籍していた竹村選手は、肩の大怪我から生活のためプロレスを廃業し、奥さんの故郷である山口県下関市に家族で移住していました。
このテレビ出演がきっかけで竹村選手はマサ斎藤さんの追悼興行に参戦し、プロレス界に復帰しています。
竹村さんは猪木さんとマサさんが死闘を繰り広げた巌流島のある下関市に12年住み関わっていく中で、プロレスの力で下関の人々や街、企業に夢と元気と笑顔を届けたい!という思いが日増しに強まってきたといいます。
それが師匠のデビュー50周年大会や、団体設立の夢に繋がっていったのでしょう。
【再び動く運命】藤波辰爾「新体育館でも試合がしたい」
奇しくも2022年の大会で藤波さんは「新体育館でも試合がしたい」という希望を述べられていました。団体設設は難しいにしても、竹村さんが下関に居る限りは可能性がないわけではありません。

新体育館のプロレスこけら落としに竹村選手が出場できたのは、デスペラード選手の負傷というアクシデントによるものでしたが、下関で議員活動をはじめ、事業を展開して根を張ってきたこと、かつて新日本で棚橋選手と同じ釜の飯を食ってきたという歴史があったことで実現したのは間違いない事です。
【未来への予感】新体育館と藤波辰爾の“次の物語”
正直、体育館のキャパはNJPWでも埋められないくらいの広さがありますけど、藤波さんが生涯現役を貫く以上、どこかで新体育館とはご縁があるような気がしてなりません。
それがいつの日になるのか? 私も楽しみにして待ちたいと思っています。
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