回転!揺りイス固め.NEO

アニメ好きが高じて色んな感想を書いている老害オタクのブログ

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老害オタクの回転!揺りイスブログ・細分化しすぎたオタク界隈の話②

2017/05/07

私は昔いじめられっ子でした。

いじめられた体験は私にとって、いじめっ子に復讐するという生きる糧にはなりました。しかし、それは自己肯定感がないまま生き続けることになったため、ものすごくキツイことでもありました。

やがて、いじめっ子に復讐するという目的が、卒業などで、物理的に叶わなくと、生きるためには別な目標を探す必要がありました。それが私にとってはプロレスだったり、アニメだったり、映画だったりしたわけです。

しかし、ここで私は新しい「敵」に出会います。それが世間でした。単純に好きなことをしているだけなのに、迫害される不条理。それは私が新しくみつけた復讐のターゲットでもありました。

昔はオタク趣味と呼ばれるものは、一定の年齢を経たら卒業しなければならないものでした。今から考えると随分バカバカしい話ですが、つい10数年前でもそうした考え方が支配的でした。だから私は「卒業」を強制されて、ソフビ人形やカード類をダンボール箱に入れられ、あけることを許されませんでした。こうした背景には根強い「子どもは大人になるもの」という固定観念があったわけです。

典型的な例が、宮崎勤事件を巡る一連の報道姿勢でしょう。宮崎勤死刑囚の部屋にあった数本のアニメビデオから、報道がそこだけを切り取って恣意的な伝え方をしたことも手伝って、世間のオタクバッシングはかなり厳しいものになりました。

実は今現在もなりを潜めているだけで、潜在的なオタク差別は存在しているのですが、そうした空気に敏感になり、空気を読まざるを得ないオタクたちは、世間からバッシングされないために、自らを律していく方向に舵を切り始めていきます。

こうして人に迷惑をかけない、人から後ろ指を指されない現在のオタク像が完成していくわけですが、あまりにルールを細かく作りすぎたために、今度は本来自由であるはずの趣味の世界が非常に窮屈で不寛容なものになってきました。

昨今、マスコミが声高に「不寛容、不寛容」と繰り返す論調には、私は全く同意できません。が、自ら作り出したルールでがんじがらめになり、少しでもルール違反を起こせばこぞって叩く。あるいは、極端な話、自分と同じ価値観、同じ認識にないものは徹底的に排除しようとする趣味人たちの姿からは、私は哀しみすら感じるのです。

本当は趣味の世界を自由に生きるユートピア実現のために決断してきたはずのルールが、結果的にデストピアを生み出してしまったように、わたしには見えて仕方ないのです。それはあまりに切なすぎます。

しかし本当はわかってもらいたい。でも近い存在からは同族嫌悪される。自己肯定感も低い。わかってもらいたいからひたすら低姿勢。過剰なマナーを厳守する傾向。

ではどうしたらよいでしょうか?私はまず、本当はどうしたいか?を知る必要があると考えます。そのためには

① 選択肢を増やし

②問題を具体化or抽象化して

③無意識の力を借り、

⓸第三の視点からみてみる

ことが大切ではないかと思うのです。

それにプラス聴くスキルを身につけると有効だと、私は体験上思います。わかってもらう前にわかろうとするには、聴く力、引き出す力はコミュニケーションの強い武器になります。聴く力を身につけると、自分の身も守れます。むしろ他人を理解するより先に自分の身を守る体を優先して、自己肯定感を増す練習もしていくとよいかもしれません。

他者を否定せずに自己肯定感だけあげていくことで、他者を否定ばかりする自分を第3の視点からみてどう思うかがみえてくるでしょう。

最終的に世間の目と自分の問題を切り離すことができれば完璧ですね。私も実はそのゴールを目指して進んでいる最中なんです。たぶん長い間かけてこkに到達するのが自分のミッションなんじゃないか・・・最近はそんなことを考えたりもしているのです。









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