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怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ

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怒り、苦しみ、破壊し、創造する!マイストーリー

・七歳くらいから死にたい人間だった

私、こう見えて七歳くらいからずっと死にたいと思ってきました。二歳くらいの時から「長男だから」「お兄ちゃんなんだから」と、しっかりすることばかりを求められ、自分のしたいことは制限され、新しく上がった小学校にはなじめず、ずっと図書館にこもっては即身仏になる本ばかり読んでいました。どうせ自分はいらない人間なんだ、という感覚はすでにこのころから生まれていました。

そののち、小学4年生くらいからいじめにあうようになってくると毎日が憂鬱でした。もしあなたがいじめられたとしたら、どうするでしょうか?先生に訴えるでしょうか?それとも親に訴えていくでしょうか?あるいはいじめっ子に直接向かっていくことでしょうか?

私はこのどれでもないひとつの決断をしました。それは「生きていじめていたやつらを見返してやる」というものでした。これだけですと結構前向きな動機のような感じがしますが、事実はそうではありません。私という存在が疎ましいなら、私が生きていること自体が彼らにとってのいやがらせになる・・・と当時は本気でそう思っていました。

これがストレートに生きる動機になったのなら、まだよかったのですが、この時点では、七歳のころから持ち続けていた死にたい感覚を解決したわけでもありません。まわりに信頼できる人間は誰もいませんでしたから、死にたい感覚も生きようとする動機もひたすら自分の中で念じていたにすぎません。

 

・それでも生き続けてしまった

私の中では、死にたいという感覚と、生きて見返してやる(生きたいではない)という感覚というまったく相反する、矛盾したものを抱えたまま成長していくことになってしまいました。しかも、それが私にとっては「当たり前」の感覚になっていました。

自分と向き合おうとしなかったばかりに、その矛盾にすら気づかず、息苦しさばかりを抱え込んでいくばかりでした。そして、その原因が何なのかさえ自分自身わからずにいたのです。

いじめにあったこともあって、他人はとにかく信用なりませんでした。いつ危害を加えらるか、ビクビクしながら生きていたので、誰かに相談しようという発想自体が生まれてきませんでした。

多分、この息苦しさは親でさえ知らないと思います。親にも無論相談したことはありませんでしたからね。あなたは、第三者の立場として「いえばいいのに」とか「勇気を出して相談していれば」と思うかもしれません。しかしこの不合理な怨念をひたすら抱えたまま、そのエネルギーは自分自身を傷つけ続けるのです。

ところで、あなたは私がこの誰にもいわないでひたすら念じ続けている本当の気持ちは、いじめた側に伝わると思いますか?

私はずっと「因果応報」を信じていました。だから、いじめた相手に私の怨念が伝われば、いじめっ子は然るべき報いを受けるはずだと。

しかし、残念ながら事実は誰にも何も伝わらないのです。

さて、19歳の時には自分でも忘れられない出来事がありました。とあるアニメ月刊誌に私が書いたアニメの感想が載りました。それ自体はとてもいいことだと思われるかもしれません。しかし、その内容は人間否定ととられかねない内容でした。私の文章に対しては、編集部、読者、コーナー担当者も総出で「思い上がりだ」と一斉に非難を浴びせてきました。

もちろん私に今でいうところの「炎上」させる意図はなく、単に感想を述べたにすぎません。ですから、この思いもよらぬ反応に私はすっかりビビりあがり、慌てて謝罪文を書いて投稿しました。

ただ、30数年前はまだネットもなく、月刊誌なので、私の謝罪文が載るまでは数か月を要し、その間ずっと私は「人間否定論者」として活字に責め続けられたのです。この間、駅のホームに立つと本当に線路に吸い込まれそうな感覚になったことをよく思い出します。この出来事がきっかけになって20代の最初には人間恐怖症にもなっていました。

・自分を変えたくて営業職を選んだが失敗

「このままではいけない」と自分に負荷をかけて、あえて恐怖症克服のために、営業職を選んで就職しました。しかし人間恐怖をを抱えたまま勤まるほど営業というのは甘くありません。実際入社して同期が次々成果を出していく中で私だけが成績をあげることができずに苦悩していました。

ようやく入社から半年近くたってやっと成果を出せましたが、そこから八年半続けられたのは、我ながらよくやったよなとしか思えません。

しかし、成績の上がらない私は、会社から追い立てられるように退職を余儀なくされました。

この時、自分には「続ける」才能があるを思い知りました。もしかすると、あなたにも、好きなことなら時間を忘れて没頭された体験がおありになるかもしれません。

好きなことなら、まだわかるでしょうけど、私の場合、自分が望まないこと、自分がイヤなことでも続けられたのです。それが自分にとって「仕事」だったわけですね。この傾向は転職してからむしろ強化されてしまいました。

営業職を辞めた当時はまだバブルの残り香が漂う時代でもありました。今でなら「リーマンショック」や「就職氷河期」という理由があって、無職になることはそれほど珍しくありません。しかし20数年前は自己都合で退職する人間など社会不適合者であるという認識が、ハローワーク側にすらあった時代です。ましてや自己肯定感が低くなっている私は、自分を更に激しく責めていました。

・自分を鍛えなおすためにコンビニ店員として働くも11年半で失職。

「こんなんじゃだめだ」と正社員ではなく、バイトからスタートしてもう一度自分を鍛えなおそうとし始めたのが30になってからでした。実はこの時代、転職にも年齢制限があって30をこえた人間を募集している求人はほぼなかったのです。

こうして私は自分が望んだとおり、コンビニのバイトをスタートして一から自分を鍛えなおしていくことになったのです。ところが、私を雇った店長は雇われで、一か月もしないうちに退職。ベテランのバイトさんも追従するようにバタバタとやめていき、残ったのは私一人でした。あとから来た店長は仕事の経験もなく、結局社会人経験が長い私が、入店半年で実質新人の教育係として入店半年で店のすべてをサポートすることになっていきました。

しかしこの実質副店長状態になってもシフトが増えるばかりで給与はあがらず、生活はどんどん苦しくなる一方でした。

なんとか正社員になりさえすればこの状況から脱出できると考えて、その後も求職活動はしていましたが、この時点で体に変調をきたしていた私は、店を回す労働量と一向に成果の出ない求職活動と、時間ばかりとられるリハビリで疲れ果てていました。

あげくすでに体を壊していた私は通院する必要があることを上にいっていたにも関わらず、他のクルーからはさぼりとみなされ、またしても孤独な立場に追いやられることになりました。結局これも私が頭を下げることで一件落着したわけですが、自分の中にはずっとしこりが残り続けていました。

のちにやっと正社員として同じ店に登用はされました。一見すると貧乏生活からの脱出をはかれたかのようにみえたのですが、給与は固定給となり、バイト時代より手取りは減ってしまいました。そのうえ、人件費削減でバイトのシフトを上から大幅に減らされたため、朝夜問わず店に出ずっぱりになって、家には寝に帰るだけという状態にまでなってしまいました。

こうした状態でもはやなんで生きているのかわからない状態のときに、突然社長から「来月で店を閉める」ので、店長ともども解雇という通達を受けました。こうして11年半働いた職場をおわれた私は再び無職に逆戻りを果たすわけです。

・2年間寝たきりの生活を体験

辛すぎて仕方ないとき、あなたはいっそ死にたいと思うでしょうか?それとも現状を受け入れて漫然と生きながらえますか?たぶん私が想像するに、多くの自殺者の方は「いっそのこと」と決断して死を選んでいらっしゃるのかもしれません。ところが私の場合、寝たきりになって思い知ったのですが、死ぬエネルギーすら自分の中にないことに気づかされたのです。

さて、11年半働いていたといっても大半がバイト生活でしたので、会社都合であっても失業保険は3か月しかおりません。最初に職を失った時より、いくぶんハローワークも好意的に変化はしていました。また年齢制限は撤廃されえたとはいうものの、実態は以前とそう変わらず、希望の仕事は皆無に等しいものでした。なんとかその中でいくつかは面接にもこぎつけましたけど、そんな就職活動をしていた一年後、猛烈な吐き気が私を襲い、ほどなく寝たきりの状態になりました。40をむかえたばかりのころのことです。

そこから二年間天井だけを見つめ、栄養は点滴だのみという生活がずっと続きました。とにかく寝たきりになってからはひたすら原因を周りのせいにばかりして過ごしていました。「自分を首にした会社が悪い」「自分をこんな目に合わせた人間が憎い」などなど。おまけに当時通っていた病院は待ち時間6時間、診療1分というものすごい所だったので、頼みの綱の医師にすら不信感と疑念を抱いていました。
転機はそんな中で訪れました。いろいろ試されていた新薬の中で一種類劇的に効果が出たものに出会えたのです。これによって私は寝たきり生活から一時的に解放されたわけです。しかし解放されただけで、矛盾した感覚の問題はそのまま放置していたのです。ご飯は相変わらずのどを通りませんでしたし、数時間は外に出ても平気でしたが、長時間の活動、ましてや勤務などというのも夢のまた夢でした。こういう状況で働き口を探せといわれても正直困り果てるしかありません。

このように長い間寝込んでいる間、一向に成果を出せない私を両親が厳しく叱責してきました。寝てる暇があるなら何か資格を取れというわけです。最初は「ボイラー技士」の免許をとらされそうになったのですが、それには激しく抵抗しました。

・カウンセリングの勉強をはじめて、やっと自分と向き合うようになった

結局パソコンの基金訓練に通うことになりました。基金訓練というのは2009年前後にあった制度で現在は求職者支援制度というものに変わっています。就職に有利なようにスキルの高い人間を短期間(約3か月)で大量生産するこの制度によって、逆に就職に関する競争力はあがってしまいました。

正直授業による長時間の拘束には不安もあったのですが、問題は別なところにあったのです。それは他の受講生との軋轢でした。ここでも味方は誰もいません。卒業すれば少ないパイを奪い合う敵同士です。仲良くできるはずもありません。失意の中、次の展開を考えねばならず途方に暮れていた時に一枚のチラシと出会います。それが心理カウンセラーの養成を行うという、のちに私が通う学校のものでした。ここでやっと自分と本気で向き合う必要性を痛感したわけです。もっとも最初の動機は「このまま薬を飲んでいてもいいことないから、自分の心の仕組みを知って再発も防いでいけたらいいな」というものでした。

辛すぎて仕方ないとき、あなたはいっそ死にたいと思うでしょうか?それとも現状を受け入れて漫然と生きながらえますか?たぶん私が想像するに、多くの自殺者の方は「いっそのこと」と決断して死を選んでいらっしゃるのかもしれません。ところが私の場合、寝たきりになって思い知ったのですが、死ぬエネルギーすら自分の中にないことに気づかされたのです。

そこから二年間天井だけを見つめ、栄養は点滴だのみという生活がずっと続きました。とにかく寝たきりになってからはひたすら原因を周りのせいにばかりして過ごしていました。「自分を首にした会社が悪い」「自分をこんな目に合わせた人間が憎い」などなど。おまけに当時通っていた病院は待ち時間6時間、診療1分というものすごい所だったので、頼みの綱の医師にすら不信感と疑念を抱いていました。
転機はそんな中で訪れました。いろいろ試されていた新薬の中で一種類劇的に効果が出たものに出会えたのです。これによって私は寝たきり生活から一時的に解放されたわけです。しかし解放されただけで、矛盾した感覚の問題はそのまま放置していたのです。ご飯は相変わらずのどを通りませんでしたし、数時間は外に出ても平気でしたが、長時間の活動、ましてや勤務などというのも夢のまた夢でした。こういう状況で働き口を探せといわれても正直困り果てるしかありません。

・寝たきり生活を脱し、カウンセリングの道へ

このように長い間寝込んでいる間、一向に成果を出せない私を両親が厳しく叱責してきました。寝てる暇があるなら何か資格を取れというわけです。最初は「ボイラー技士」の免許をとらされそうになったのですが、それには激しく抵抗して、結局パソコンの基金訓練に通うことになりました。基金訓練というのは2009年前後にあった制度で現在は求職者支援制度というものに変わっています。就職に有利なようにスキルの高い人間を短期間(約3か月)で大量生産するこの制度によって、逆に就職に関する競争力はあがってしまいました。

正直授業による長時間の拘束には不安もあったのですが、問題は別なところにあったのです。それは他の受講生との軋轢でした。ここでも味方は誰もいません。卒業すれば少ないパイを奪い合う敵同士です。仲良くできるはずもありません。失意の中、次の展開を考えねばならず途方に暮れていた時に一枚のチラシと出会います。それが心理カウンセラーの養成を行うという、のちに私が通う学校のものでした。ここでやっと自分と本気で向き合う必要性を痛感したわけです。もっとも最初の動機は「このまま薬を飲んでいてもいいことないから、自分の心の仕組みを知って再発も防いでいけたらいいな」というものでした。

とはいえ、服薬しつつ通うには月2回3時間の授業はそれほど負担にならないと思っていたのですが、現実は結構厳しいものでした。その状況にだいぶん慣れてきたころ、私はカウンセリングを受けることになりました。入学してから3か月後のことでした。なんとなく興味がわいていたので、試しにやってみるかと軽い気持ちで受けることにして、一か月後の七夕に予約を入れて、楽しみにその日を待っていました。そして迎えた当日、事件は起こったのです。私はそれまでスキンシップというものがすごく苦手で握手するのも嫌悪感をもっていました。ところが自分と向き合ってこなかった私は、自分にそういう苦手意識があることすらわかっていませんでした。もちろんハグに関しては私も了承したうえで行ったのですが、いざやってみたら何とも言えない気持ち悪さでいっぱいになったのです。実はのちにハグというのは、愛着形成に欠損のある私のようなタイプには効果的であると同時に結構「劇薬」であることも知りました。

私の場合、ハグは劇薬だったわけです(余談ですが、現在のカウンセリングではハグをしないことが一般的になっています)が、これによって薄皮をはがすかのように、ていねいに自分の問題と向き合って解決していく、とても辛抱のいる時間のかかる作業になることを、私は覚悟したのです。ハグの体験に関してはそれ以降ほぼなかったのですが、薄皮をはがすたびにいろんな問題が浮上してきては、その都度大変な目にあっていきました。

一番印象に残っているお話を1つしましょう。当時のカウンセリングルームはエレベーターのない建物の5階にありまして、まるでクライミングができるような急傾斜の階段を伝っていかなければなりませんでした。昇りはそれほど苦ではないのですが、問題は帰り道にありました。その日は夜の回に予約を入れていたので、帰りの時間はもう日が落ちていました。先生と事務局の女性にお礼を言ってルームの外に出た瞬間、廊下は真っ暗闇。そう、ほかのテナントはすでに業務を終了していて、帰っていたのです。しかし「自分でなんとかしなければいけない」と思い込んでいた自分は、ルームに残った先生や事務員さんに頼ることを選択せず、階段の電気のスイッチを探しもしないで、そのまま手すりを伝って急傾斜の階段をそろそろと降りて行ったのです。しかし、一階まで降りると入り口にはシャッターが下ろされているではないですか。5階から1階まで足を踏み外せば下手すれば死ぬこともありえる状況下で、奇跡的に入り口までたどり着いたのですが、ここではじめて自分がとんでもないことをしていたことに気が付いたのです。

なんとか廊下のスイッチを手さぐりで探し当てた私は明かりのついた階段を登り切り、5階まで逆戻りして、先生と事務員さんに助けを求め、無事シャッターをあけて、帰宅することができました。このことは今でも忘れられません。

・他人のためより自分のために生きようと決断しなおす

こうして4年4ヶ月に渡るカウンセリングを終えた私は、更に自分自身の問題と向き合うことを続けていきました。皮肉なもので、目を背けたくても続けられる私の才能はここでも生かされたわけです。

カウンセリングで出来ることには限界があります。最終的に私がカウンセリングから卒業したのは、自分自身の問題と向き合う力を取り戻したからです。私がカウンセリングにおもねって、依存していたら、未だにカウンセリングから離れられずにいたことでしょう。

そして、自分自身と向かい合う闘いは今もなお現在進行形で続けています。

こうして、私には自分が必死で問題を解決し、乗り越えてきた体験があります。

もし、問題を抱えたあなたが、本心から問題解決を望むのであれば、全力でそれを支援させていただきたいと思いますが、そうでないならばともに時間を共有していくことはないでしょう。

本心から変わりたいと思うのであれば貴重な時間を割いてでもお手伝いしたいと思います。

しかし、もしあなたがカウンセラーに依存したり、私に問題解決の全責任を負わせ、自分で変わろうという気がない場合、それは関わるだけ時間の無駄でしかありません。

それは私にとっても有益ではありませんし、あなたにとっても無益でしかありません。そんなことに時間とお金を使うのであれば、最初から何もしない方がましなのです。

私は現在「働かないカウンセラー」を自称しています。これは厳密にいうと「変わる意思と覚悟がある人のためなら働いてもいい」という意味でもあります。変わる意思と覚悟のない人のためには働く気は毛頭ありません。

繰り返しますが、私の才能は「続けられる」ことです。勿論今でも好きなことなら寸暇を惜しんで続けられますし、おそらく今でも望まないこと、嫌いなことでも続けられるはずです。

しかし、私はブログを通じてハッキリ好き嫌いを宣言し続けてきた結果、意にそぐわぬ依頼をことわることができるようになりました。

きっかけは、2016年にあらゆる気にいらないものをブログを使ってdisりはじめたことからはじまります。

すると不思議なもので、今まで無反応だった周囲に「反響」がおこりました。私の書いたものを面白いとさえいっていただけるようになったのです。これは予想外でしたね。

それまでは空気に等しかった私の存在がはじめて第三者に認知されたわけです。それまでどれほど望んでも、振り向いてもらえなかったのに、嫌われてやろうとしたら、振り向いてもらえたのです。

好かれようとしていないからこそ、私は自分の気に入らないものには様々な形で「NO!」を突きつけることができるようになりました。

「働くからには、気に入らないことでも我慢しなくては」とかつては私もそう思い込んでいました。しかし、それは私の思い込みでしかないわけです。

自分の生きたいように生きるためなら、カウンセラーという肩書きが邪魔なら、それすら取っ払うことが今の私なら可能です。ですから、気が向けば問題支援のお手伝いもするし、気に入らないなら何もしないという選択権も私にあるわけです。私の意思と選択を変える権利は誰にもありません。

これからも私は私のために生き続けていくでしょう。

ヨガとの出会い

北九州に通うようになって体験した、大きな変化の一つにヨガとの出会いがあります。カウンセリングについては、心の面からアプローチして、問題解決に励んできましたが、身体に刻まれた記憶というのはそう簡単に抜けなかったのです。

加えて、私は長い間運動を医師から禁止されていました。ところが潮目が変わるタイミングが来たんでしょうね。2017年3月ごろに、当時通っていた医院の先生から「軽い運動」からということで許可がおりました。現在のヨガの師匠とも、時期は多少前後しますが、同じようなタイミングで出会い、潮目が変わる時期にヨガにお誘いいただきました。

もともと病に倒れる前はスポーツジムにも10年ばかり通っていたこともあり、いわゆる身体を動かすのは嫌いではありませんでした。ところが私が寝たきりになるタイミングでジムも倒産してしまい、そこから運動とは遠ざかってしまいました。

ただ、ジムでは専門のトレーナーもおらず、自己流でやるしかなかったので、いつかきちんとした先生について指導してもらいたい、という希望は持っていました。そこへ来てのお誘いでしたから、これは天啓だと思い、体験入学したわけです。しかし、最初はやはり運動から離れていたブランクで、今なら楽勝で出来るポーズでさえ、悪戦苦闘していました。

そして、想像以上に自分の身体に余分な力が入りすぎていたことに、唖然とされられました。自分はリラックスしているつもりが、無意識のうちに身体を強張らせていたことに気付かされたのです。身体を強張らせて、長い間身を守り、習慣化させてきたことは、一朝一夕では解決できない課題として、今も取り組み続けています。

ヨガをはじめて1年くらいたつと、はじめた頃よりも明らかに体調が良くなっている実感があります。具体的には、

①痛みの軽減
②睡眠の質の向上
③脱力効果

の3つが実感できています。いずれも長い間、私を悩ませてきた課題だったため、これらが改善されていることは、私にとっては無情の喜びでもあります。もっともまだ道半ばという感覚もあるので、今後も自分と向き合って、無駄な力を入れずに済む。より脱力できる人生をおくるために、続けていきたいと思っています。

両親の介護と自分の人生

さて、2018年2月より一人暮らしを始めました。なぜ今頃ひとり暮らしをはじめたのか?

それは両親の介護が始まったからです。そもそも両親の面倒をみる肉親は私しかいません。しかし、年々ボケていく一方の両親との同居に加え、片道一時間の通勤は心身ともに負荷がかかりすぎていました。下手をすると、私共々共倒れになる危険性も十分にあったわけです。そこで地域包括センターと相談した結果、私が独立して両親と距離を置くことになったのです。

とはいえ、両親をずっと放ったらかしにできる状況ではないため、週に2日は実家住まいという変則的な生活を続けています。具体的には、両親が買ってくる無駄な食材を冷蔵庫から一掃したり、ボケの進行具合によっては、包括センターに連絡するなどのミッションがあります。

前者は毎週ありますが、後者は幸いにして2018年現在、ありません。しかし、いずれ時が進めば進むほど、必然性は増していきます。こればかりは避けられません。多分、昨年同様に私が実家住まいを続けていたら、私自身が崩壊していたでしょう。介護というのは側から見ている以上に重く厳しいものだ、ということを今更ながら実感しています。

以前の私でしたら誰にも相談できずに、抱え込んでしまったでしょう。包括センターとのご縁は、両親をデイケアに通わせるためにできたものでした。しかし、両親がデイケア通いを(わがままで)拒んだため、本来の目的とは異なりましたが、私が両親と距離を置くという発想は、私が包括センターの方と相談した中から出てきたもので、1人で考え込んでいたら、たどり着けなかったでしょう。

そもそも両親は、自分たちの両親を介護した経験はありません。これにボケが重なって自分たちが介護されているという自覚がありません。加えて年々わがままになってきています。その矛先がどこに向いてくるかというと、全部私に来るのです。これではこちらが持ちませんよね。

ひとり暮らしをはじめてからの私の生活は劇的に快適になりました。週6の通いが週2になりましたし、もともと洗濯と自炊は苦ではないため、問題にはなりませんでした。やってみたらどうということはなかったのですが、踏み出すまでが本当に大変でした。でも今はこの生活を選んだ決断を間違っていないと思っています。

今までは自分は「何ができるか」ばかりを考えてきました。できない自分を肯定せず、「できるようになる」ため、なんでもやってきました。おかげでスキルは山のようにたくさん身についていますが、最近は「何をやらないか」ということに意識がシフトしています。

足し算から引き算の生き方へ

どういうことか?もう少し詳しく説明しましょう。人間には貧富や年齢、性差など関係なく平等なものがあります。それは時間です。人間には一日24時間しか与えられていません。今までは、その時間を少しでも長引かせるために、寝ないという選択をしてきました。

ですが、年齢を経てくると寝ないで何かをやるというのは非常にリスキーです。実際2017年は各種イベントに携わったおかげで、得難い体験もたくさんしたのですが反面、寝る時間も削って健康面ではどんどん自分を追い込んでいました。その結果、緑内障が進行してしまうという最悪の結果を招きました。そこで、限られた時間で何をして、何をしないか?その取捨選択をする必要に人生ではじめて迫られたのです。

まず、仕事の優先順位をさげました。自分が生きていくために必要なはずの仕事をしない決断。これが私の人生において足し算から引き算に変わった瞬間でした。この時、仕事をしないと生きていけないというのは自分の思いこみに過ぎないことを思い知るわけです。ぶっちゃけイヤイヤながらはたらいてきて20年。この間に貯まっていたお金は、数年、いや節約次第ではもう少し長く無職で生きられるだけありましたから、これはプロレス以外で無駄遣いしなかった自分に感謝しましたね。

ということで、必要経費に健康関連を最優先にして、その次に自分のしたいことを持ってきました。これも昔なら最優先事項でしたが、娯楽が楽しめるのも心身の健康あってのこと。それを考えると、仕事同様、こちらも無理をするわけにはいきませんでした。

というわけで私は臨時で入る仕事以外は基本「何もしない人」になったのです。正直、フリーランスを名乗っていた時分に、自らの肩書きを決める際、どうしても「これは!」というものが浮かんできませんでした。それはそうですよね。

「働いて稼げているなら自分は生きていていい」という条件付きで、自分自身の存在を認めていたのですから、浮かんでくるはずもありません。であるならば、今の私にとっては仕事は必ずしも絶対的に優先しなければならないものではなかったということになります。そもそも日本人が考える働き方で、介護まで兼務すること自体無理があるわけです。自分でなんとかしようという事自体が間違いなんです。人に迷惑をかけてはいけない、というのはある意味独善ですらあります。

本来、人間はそこにいるだけでいい存在であることを、散々カウンセリングの学校で学んでおきながら、まだわかっていなかった自分の浅はかさも露呈したわけですが、同時に気づけたということは、問題解決の糸口をみつけたことにもなります。

まとめると、

①自分の存在に条件をつけない
②自分に本当に必要な優先順位を決める
③「何ができるか?」より「何をしないか」

特に③は、「引き算の生き方」として、これから私が実践していくことになりそうです。面白いもので、自分が収集したモノは捨てられないのに、生き方に関しては断捨離をはじめているのですから、自分でも笑っちゃいます。

でも、生き方はごちゃごちゃしているよりは、シンプルな方が難しいですけど、「面白いな」と今は思っています。手放せない生き方しかできなかった私が、いよいよあらゆるものを手放す段階にきたという点では、この決断は後々に大きな意味を持ってきそうですね。

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2018/07/30