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怒り、苦しみ、破壊し、創造する!マイストーリー

・七歳くらいから死にたい人間だった

私、こう見えて七歳くらいからずっと死にたいと思ってきました。二歳くらいの時から「長男だから」「お兄ちゃんなんだから」と、しっかりすることばかりを求められ、自分のしたいことは制限され、新しく上がった小学校にはなじめず、ずっと図書館にこもっては即身仏になる本ばかり読んでいました。どうせ自分はいらない人間なんだ、という感覚はすでにこのころから生まれていました。

そののち、小学4年生くらいからいじめにあうようになってくると毎日が憂鬱でした。もしあなたがいじめられたとしたら、どうするでしょうか?先生に訴えるでしょうか?それとも親に訴えていくでしょうか?あるいはいじめっ子に直接向かっていくことでしょうか?

私はこのどれでもないひとつの決断をしました。それは「生きていじめていたやつらを見返してやる」というものでした。これだけですと結構前向きな動機のような感じがしますが、事実はそうではありません。私という存在が疎ましいなら、私が生きていること自体が彼らにとってのいやがらせになる・・・と当時は本気でそう思っていました。

これがストレートに生きる動機になったのなら、まだよかったのですが、この時点では、七歳のころから持ち続けていた死にたい感覚を解決したわけでもありません。まわりに信頼できる人間は誰もいませんでしたから、死にたい感覚も生きようとする動機もひたすら自分の中で念じていたにすぎません。

・それでも生き続けてしまった

私の中では、死にたいという感覚と、生きて見返してやる(生きたいではない)という感覚というまったく相反する、矛盾したものを抱えたまま成長していくことになってしまいました。しかも、それが私にとっては「当たり前」の感覚になっていました。

自分と向き合おうとしなかったばかりに、その矛盾にすら気づかず、息苦しさばかりを抱え込んでいくばかりでした。そして、その原因が何なのかさえ自分自身わからずにいたのです。

いじめにあったこともあって、他人はとにかく信用なりませんでした。いつ危害を加えらるか、ビクビクしながら生きていたので、誰かに相談しようという発想自体が生まれてきませんでした。

多分、この息苦しさは親でさえ知らないと思います。親にも無論相談したことはありませんでしたからね。あなたは、第三者の立場として「いえばいいのに」とか「勇気を出して相談していれば」と思うかもしれません。しかしこの不合理な怨念をひたすら抱えたまま、そのエネルギーは自分自身を傷つけ続けるのです。

ところで、あなたは私がこの誰にもいわないでひたすら念じ続けている本当の気持ちは、いじめた側に伝わると思いますか?

私はずっと「因果応報」を信じていました。だから、いじめた相手に私の怨念が伝われば、いじめっ子は然るべき報いを受けるはずだと。

しかし、残念ながら事実は誰にも何も伝わらないのです。

さて、19歳の時には自分でも忘れられない出来事がありました。とあるアニメ月刊誌に私が書いたアニメの感想が載りました。それ自体はとてもいいことだと思われるかもしれません。しかし、その内容は人間否定ととられかねない内容でした。私の文章に対しては、編集部、読者、コーナー担当者も総出で「思い上がりだ」と一斉に非難を浴びせてきました。

もちろん私に今でいうところの「炎上」させる意図はなく、単に感想を述べたにすぎません。ですから、この思いもよらぬ反応に私はすっかりビビりあがり、慌てて謝罪文を書いて投稿しました。

ただ、30数年前はまだネットもなく、月刊誌なので、私の謝罪文が載るまでは数か月を要し、その間ずっと私は「人間否定論者」として活字に責め続けられたのです。この間、駅のホームに立つと本当に線路に吸い込まれそうな感覚になったことをよく思い出します。この出来事がきっかけになって20代の最初には人間恐怖症にもなっていました。

・自分を変えたくて営業職を選んだが失敗

「このままではいけない」と自分に負荷をかけて、あえて恐怖症克服のために、営業職を選んで就職しました。しかし人間恐怖をを抱えたまま勤まるほど営業というのは甘くありません。実際入社して同期が次々成果を出していく中で私だけが成績をあげることができずに苦悩していました。

ようやく入社から半年近くたってやっと成果を出せましたが、そこから八年半続けられたのは、我ながらよくやったよなとしか思えません。

しかし、成績の上がらない私は、会社から追い立てられるように退職を余儀なくされました。

この時、自分には「続ける」才能があるを思い知りました。もしかすると、あなたにも、好きなことなら時間を忘れて没頭された体験がおありになるかもしれません。

好きなことなら、まだわかるでしょうけど、私の場合、自分が望まないこと、自分がイヤなことでも続けられたのです。それが自分にとって「仕事」だったわけですね。この傾向は転職してからむしろ強化されてしまいました。

営業職を辞めた当時はまだバブルの残り香が漂う時代でもありました。今でなら「リーマンショック」や「就職氷河期」という理由があって、無職になることはそれほど珍しくありません。しかし20数年前は自己都合で退職する人間など社会不適合者であるという認識が、ハローワーク側にすらあった時代です。ましてや自己肯定感が低くなっている私は、自分を更に激しく責めていました。

・自分を鍛えなおすためにコンビニ店員として働くも11年半で失職。

「こんなんじゃだめだ」と正社員ではなく、バイトからスタートしてもう一度自分を鍛えなおそうとし始めたのが30になってからでした。実はこの時代、転職にも年齢制限があって30をこえた人間を募集している求人はほぼなかったのです。

こうして私は自分が望んだとおり、コンビニのバイトをスタートして一から自分を鍛えなおしていくことになったのです。ところが、私を雇った店長は雇われで、一か月もしないうちに退職。ベテランのバイトさんも追従するようにバタバタとやめていき、残ったのは私一人でした。あとから来た店長は仕事の経験もなく、結局社会人経験が長い私が、入店半年で実質新人の教育係として入店半年で店のすべてをサポートすることになっていきました。

しかしこの実質副店長状態になってもシフトが増えるばかりで給与はあがらず、生活はどんどん苦しくなる一方でした。

なんとか正社員になりさえすればこの状況から脱出できると考えて、その後も求職活動はしていましたが、この時点で体に変調をきたしていた私は、店を回す労働量と一向に成果の出ない求職活動と、時間ばかりとられるリハビリで疲れ果てていました。

あげくすでに体を壊していた私は通院する必要があることを上にいっていたにも関わらず、他のクルーからはさぼりとみなされ、またしても孤独な立場に追いやられることになりました。結局これも私が頭を下げることで一件落着したわけですが、自分の中にはずっとしこりが残り続けていました。

のちにやっと正社員として同じ店に登用はされました。一見すると貧乏生活からの脱出をはかれたかのようにみえたのですが、給与は固定給となり、バイト時代より手取りは減ってしまいました。そのうえ、人件費削減でバイトのシフトを上から大幅に減らされたため、朝夜問わず店に出ずっぱりになって、家には寝に帰るだけという状態にまでなってしまいました。

こうした状態でもはやなんで生きているのかわからない状態のときに、突然社長から「来月で店を閉める」ので、店長ともども解雇という通達を受けました。こうして11年半働いた職場をおわれた私は再び無職に逆戻りを果たすわけです。

・2年間寝たきりの生活を体験

辛すぎて仕方ないとき、あなたはいっそ死にたいと思うでしょうか?それとも現状を受け入れて漫然と生きながらえますか?たぶん私が想像するに、多くの自殺者の方は「いっそのこと」と決断して死を選んでいらっしゃるのかもしれません。ところが私の場合、寝たきりになって思い知ったのですが、死ぬエネルギーすら自分の中にないことに気づかされたのです。

さて、11年半働いていたといっても大半がバイト生活でしたので、会社都合であっても失業保険は3か月しかおりません。最初に職を失った時より、いくぶんハローワークも好意的に変化はしていました。また年齢制限は撤廃されえたとはいうものの、実態は以前とそう変わらず、希望の仕事は皆無に等しいものでした。なんとかその中でいくつかは面接にもこぎつけましたけど、そんな就職活動をしていた一年後、猛烈な吐き気が私を襲い、ほどなく寝たきりの状態になりました。40をむかえたばかりのころのことです。

そこから二年間天井だけを見つめ、栄養は点滴だのみという生活がずっと続きました。とにかく寝たきりになってからはひたすら原因を周りのせいにばかりして過ごしていました。「自分を首にした会社が悪い」「自分をこんな目に合わせた人間が憎い」などなど。おまけに当時通っていた病院は待ち時間6時間、診療1分というものすごい所だったので、頼みの綱の医師にすら不信感と疑念を抱いていました。
転機はそんな中で訪れました。いろいろ試されていた新薬の中で一種類劇的に効果が出たものに出会えたのです。これによって私は寝たきり生活から一時的に解放されたわけです。しかし解放されただけで、矛盾した感覚の問題はそのまま放置していたのです。ご飯は相変わらずのどを通りませんでしたし、数時間は外に出ても平気でしたが、長時間の活動、ましてや勤務などというのも夢のまた夢でした。こういう状況で働き口を探せといわれても正直困り果てるしかありません。

このように長い間寝込んでいる間、一向に成果を出せない私を両親が厳しく叱責してきました。寝てる暇があるなら何か資格を取れというわけです。最初は「ボイラー技士」の免許をとらされそうになったのですが、それには激しく抵抗しました。

・カウンセリングの勉強をはじめて、やっと自分と向き合うようになった

結局パソコンの基金訓練に通うことになりました。基金訓練というのは2009年前後にあった制度で現在は求職者支援制度というものに変わっています。就職に有利なようにスキルの高い人間を短期間(約3か月)で大量生産するこの制度によって、逆に就職に関する競争力はあがってしまいました。

正直授業による長時間の拘束には不安もあったのですが、問題は別なところにあったのです。それは他の受講生との軋轢でした。ここでも味方は誰もいません。卒業すれば少ないパイを奪い合う敵同士です。仲良くできるはずもありません。失意の中、次の展開を考えねばならず途方に暮れていた時に一枚のチラシと出会います。それが心理カウンセラーの養成を行うという、のちに私が通う学校のものでした。ここでやっと自分と本気で向き合う必要性を痛感したわけです。もっとも最初の動機は「このまま薬を飲んでいてもいいことないから、自分の心の仕組みを知って再発も防いでいけたらいいな」というものでした。

辛すぎて仕方ないとき、あなたはいっそ死にたいと思うでしょうか?それとも現状を受け入れて漫然と生きながらえますか?たぶん私が想像するに、多くの自殺者の方は「いっそのこと」と決断して死を選んでいらっしゃるのかもしれません。ところが私の場合、寝たきりになって思い知ったのですが、死ぬエネルギーすら自分の中にないことに気づかされたのです。

そこから二年間天井だけを見つめ、栄養は点滴だのみという生活がずっと続きました。とにかく寝たきりになってからはひたすら原因を周りのせいにばかりして過ごしていました。「自分を首にした会社が悪い」「自分をこんな目に合わせた人間が憎い」などなど。おまけに当時通っていた病院は待ち時間6時間、診療1分というものすごい所だったので、頼みの綱の医師にすら不信感と疑念を抱いていました。
転機はそんな中で訪れました。いろいろ試されていた新薬の中で一種類劇的に効果が出たものに出会えたのです。これによって私は寝たきり生活から一時的に解放されたわけです。しかし解放されただけで、矛盾した感覚の問題はそのまま放置していたのです。ご飯は相変わらずのどを通りませんでしたし、数時間は外に出ても平気でしたが、長時間の活動、ましてや勤務などというのも夢のまた夢でした。こういう状況で働き口を探せといわれても正直困り果てるしかありません。

・寝たきり生活を脱し、カウンセリングの道へ

このように長い間寝込んでいる間、一向に成果を出せない私を両親が厳しく叱責してきました。寝てる暇があるなら何か資格を取れというわけです。最初は「ボイラー技士」の免許をとらされそうになったのですが、それには激しく抵抗して、結局パソコンの基金訓練に通うことになりました。基金訓練というのは2009年前後にあった制度で現在は求職者支援制度というものに変わっています。就職に有利なようにスキルの高い人間を短期間(約3か月)で大量生産するこの制度によって、逆に就職に関する競争力はあがってしまいました。

正直授業による長時間の拘束には不安もあったのですが、問題は別なところにあったのです。それは他の受講生との軋轢でした。ここでも味方は誰もいません。卒業すれば少ないパイを奪い合う敵同士です。仲良くできるはずもありません。失意の中、次の展開を考えねばならず途方に暮れていた時に一枚のチラシと出会います。それが心理カウンセラーの養成を行うという、のちに私が通う学校のものでした。ここでやっと自分と本気で向き合う必要性を痛感したわけです。もっとも最初の動機は「このまま薬を飲んでいてもいいことないから、自分の心の仕組みを知って再発も防いでいけたらいいな」というものでした。

とはいえ、服薬しつつ通うには月2回3時間の授業はそれほど負担にならないと思っていたのですが、現実は結構厳しいものでした。その状況にだいぶん慣れてきたころ、私はカウンセリングを受けることになりました。入学してから3か月後のことでした。なんとなく興味がわいていたので、試しにやってみるかと軽い気持ちで受けることにして、一か月後の七夕に予約を入れて、楽しみにその日を待っていました。そして迎えた当日、事件は起こったのです。私はそれまでスキンシップというものがすごく苦手で握手するのも嫌悪感をもっていました。ところが自分と向き合ってこなかった私は、自分にそういう苦手意識があることすらわかっていませんでした。もちろんハグに関しては私も了承したうえで行ったのですが、いざやってみたら何とも言えない気持ち悪さでいっぱいになったのです。実はのちにハグというのは、愛着形成に欠損のある私のようなタイプには効果的であると同時に結構「劇薬」であることも知りました。

私の場合、ハグは劇薬だったわけです(余談ですが、現在のカウンセリングではハグをしないことが一般的になっています)が、これによって薄皮をはがすかのように、ていねいに自分の問題と向き合って解決していく、とても辛抱のいる時間のかかる作業になることを、私は覚悟したのです。ハグの体験に関してはそれ以降ほぼなかったのですが、薄皮をはがすたびにいろんな問題が浮上してきては、その都度大変な目にあっていきました。

一番印象に残っているお話を1つしましょう。当時のカウンセリングルームはエレベーターのない建物の5階にありまして、まるでクライミングができるような急傾斜の階段を伝っていかなければなりませんでした。昇りはそれほど苦ではないのですが、問題は帰り道にありました。その日は夜の回に予約を入れていたので、帰りの時間はもう日が落ちていました。先生と事務局の女性にお礼を言ってルームの外に出た瞬間、廊下は真っ暗闇。そう、ほかのテナントはすでに業務を終了していて、帰っていたのです。しかし「自分でなんとかしなければいけない」と思い込んでいた自分は、ルームに残った先生や事務員さんに頼ることを選択せず、階段の電気のスイッチを探しもしないで、そのまま手すりを伝って急傾斜の階段をそろそろと降りて行ったのです。しかし、一階まで降りると入り口にはシャッターが下ろされているではないですか。5階から1階まで足を踏み外せば下手すれば死ぬこともありえる状況下で、奇跡的に入り口までたどり着いたのですが、ここではじめて自分がとんでもないことをしていたことに気が付いたのです。

なんとか廊下のスイッチを手さぐりで探し当てた私は明かりのついた階段を登り切り、5階まで逆戻りして、先生と事務員さんに助けを求め、無事シャッターをあけて、帰宅することができました。このことは今でも忘れられません。

・他人のためより自分のために生きようと決断しなおす

こうして4年4ヶ月に渡るカウンセリングを終えた私は、更に自分自身の問題と向き合うことを続けていきました。皮肉なもので、目を背けたくても続けられる私の才能はここでも生かされたわけです。

カウンセリングで出来ることには限界があります。最終的に私がカウンセリングから卒業したのは、自分自身の問題と向き合う力を取り戻したからです。私がカウンセリングにおもねって、依存していたら、未だにカウンセリングから離れられずにいたことでしょう。

そして、自分自身と向かい合う闘いは今もなお現在進行形で続けています。

こうして、私には自分が必死で問題を解決し、乗り越えてきた体験があります。

もし、問題を抱えたあなたが、本心から問題解決を望むのであれば、全力でそれを支援させていただきたいと思いますが、そうでないならばともに時間を共有していくことはないでしょう。

本心から変わりたいと思うのであれば貴重な時間を割いてでもお手伝いしたいと思います。

しかし、もしあなたがカウンセラーに依存したり、私に問題解決の全責任を負わせ、自分で変わろうという気がない場合、それは関わるだけ時間の無駄でしかありません。

それは私にとっても有益ではありませんし、あなたにとっても無益でしかありません。そんなことに時間とお金を使うのであれば、最初から何もしない方がましなのです。

私は現在「働かないカウンセラー」を自称しています。これは厳密にいうと「変わる意思と覚悟がある人のためなら働いてもいい」という意味でもあります。変わる意思と覚悟のない人のためには働く気は毛頭ありません。

繰り返しますが、私の才能は「続けられる」ことです。勿論今でも好きなことなら寸暇を惜しんで続けられますし、おそらく今でも望まないこと、嫌いなことでも続けられるはずです。

しかし、私はブログを通じてハッキリ好き嫌いを宣言し続けてきた結果、意にそぐわぬ依頼をことわることができるようになりました。

きっかけは、2016年にあらゆる気にいらないものをブログを使ってdisりはじめたことからはじまります。

すると不思議なもので、今まで無反応だった周囲に「反響」がおこりました。私の書いたものを面白いとさえいっていただけるようになったのです。これは予想外でしたね。

それまでは空気に等しかった私の存在がはじめて第三者に認知されたわけです。それまでどれほど望んでも、振り向いてもらえなかったのに、嫌われてやろうとしたら、振り向いてもらえたのです。

好かれようとしていないからこそ、私は自分の気に入らないものには様々な形で「NO!」を突きつけることができるようになりました。

「働くからには、気に入らないことでも我慢しなくては」とかつては私もそう思い込んでいました。しかし、それは私の思い込みでしかないわけです。

自分の生きたいように生きるためなら、カウンセラーという肩書きが邪魔ならそれすら取っ払うことが今の私なら可能です。ですから、気が向けば問題支援のお手伝いもするし、気に入らないなら何もしないという選択権も私にあるわけです。私の意思と選択を変える権利は誰にもありません。

これからも私は私のために生き続けていくでしょう。












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2017/08/13