プロレス的発想の転換のすすめ(90) 帰る場所
安心して帰る場所
今回は「帰る場所」についてお話しします。
これを読んでいるあなたには、安心して帰ることができるところがありますか?
プロレスはチームプレイ
プロレスは一見すると個人対個人の問題のようにみえます。
しかし、実はプロレスほどチームプレイを要求される競技はほかにないと思います。
相手に怪我させない
プロレスの試合では往々にして相手に身を預ける場面が存在します。
それは当然相手の技を受けても耐えうる自分のアピールにもなりますが、同時に相手を怪我させないことで、対戦カードに穴を開けない配慮もみえます。
対戦がなくなれば
もし、プロレスが何しても勝てばよいのなら、相手が怪我しようが何しようが関係ないのですが、自分の相手が怪我などで次々と欠場していけば、対戦カードが組まれにくくなります。
対戦がなくなれば自分の出番も失います。
ですから、相手を「ホントにぶっ壊してしまう」ことは、巡り巡って自分のためにはならないわけです。
私が帰るべき場所
さて、私には家族を含む集団への帰属意識が恐ろしく希薄でした。
しかし、反面「自分が帰り着ける場所」をずっと探してもいました。
それに気づいたのはごくごく最近になってからです。
集団のための歯車
それまでの私はとにかく集団のために個を殺す生き方をしてきました。
私が何者であるか、というのはどうでもよくて、ひたすら組織のための歯車であろうとしていたわけです。
私が帰るべき場所
その結果がどうなったかというと、歯車として役に立たなくなった途端に、集団から切り離され、何ものでもない個になってしまう事をひたすら繰り返してきました。
プロレスファンであり、いち観客として私が帰るべき場所は会場です。
心の拠り所
しかし、それはリングが設置されている間だけで、撤収されてしまえば、ただの体育館だったり、ホールだったりに戻るわけです。
私が心の拠り所にしているのはプロレスというジャンルであり、特定の団体・選手のみを応援するということをしていません。それはなぜか?
応援していたチーム
私はかつて、プロ野球も好きでした。
応援していたチームはいまはなき近鉄バファローズ。
野球=近鉄だった
近鉄以外のチームを応援するというのは私には考えがたいことでした。
私にとって野球は近鉄というチームと「イコール」になっていたのです。
野球からサヨナラ
しかし、2004年の球団再編騒動によって近鉄はオリックスと合併。
新たに楽天が参入して形の上では「2リーグ、12球団制」が維持されました。
先に申し上げた通り、私には近鉄以外のチームを応援する気持ちはつゆほどもありませんでしたから、この時点で私は野球から「サヨナラ」することになりました。
団体の消滅
仮に世界大手のWWEや新日本プロレスが消滅したとしましょう。
アメリカではWWEのライバル団体であったWCWが現実に消滅した歴史があります。
推しがいなくなると
日本では大小数多くの団体が泡末のように生まれては消えていきますから、いちいち反応していたらキリがありません。
ましてや推しの選手がなくなるなんて事態もありえない話ではなく、それでプロレスファンまでやめてしまう人もいないわけではありません。
私が死んでも
たまたま私の場合はプロレスと野球では見る形が異なったため、野球ファンは引退し、プロレスだけはズルズル見続けているわけですが、多分私が死んでもプロレスは残るはずなんで、死ぬまで帰る場所として残ってくれそうな気がしています。
あれほど隆盛を極めた総合格闘技のブームもあっという間に過ぎ去り、あれだけ格闘技に押されていたプロレスはまた再び息を吹き返しています。
しぶとい生命力
そう考えると、プロレスのしぶとい生命力は、少なくとも私が死ぬまではなくなる心配する必要がなさそうです。
間違ってもプロ野球のような業界再編とかはありえないでしょう。
精錬や品格など
清廉や品格が求められない泡末のようなプロレスだからこそ持ちえた生命力ではないでしょうか?
スポーツとして組織的にはコミッションや協会があった方が、世間的な体面はいいと思います。
しかし、どっちにしろ腐っているんなら、最初からコミッションなんかない方がいいんじゃないかとさえ、私は思ってしまうのです。