[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝(97)坂口征二

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

私的プロレススーパースター烈伝(97)坂口征二

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世界の荒鷲

今回は現役時代に世界の荒鷲と呼ばれ、今もなお新日本プロレスの相談役として活躍中の坂口征二さんのお話です。

坂口さんは、196cmの長身を生かし明大卒業後旭化成に入社し、1965年、全日本柔道選手権で優勝します。

打倒ヘーシンク

その後も1965年世界柔道選手権大会に日本代表として出場し、銅メダルを獲得します。

柔道時代の坂口さんは1964年東京オリンピックで先輩がアントン・ヘーシンク選手に次々と倒されるのを見て「打倒ヘーシンク」を目標としていました。

プロレス転向

しかし、1965年にヘーシンクさんが引退してしまったため、目標を見失ってしまいます。

坂口さんは、目標を見失って柔道の稽古にも身が入らなくなっていたところに、たまたま日本プロレスの関係者との会食をセッティングされ、「プロレスラーになればこんなにもおいしいものが食べられるんだ」と感動した事でプロレス転向を決意したそうです。

下積み経験

こうして、坂口さんは1967年、旭化成工業を退職して日本プロレスに入団し、2月17日に赤坂のホテルニューオータニで入団発表を行った後、同夜にハワイでの特訓に出発しました。

プロレス転向を発表後すぐに渡米しプロレスラー修行を行いデビューに至っているため、坂口さんには、この時代のプロレスラーには珍しく、ほとんど下積み経験がありません。

優遇されていた

といっても、一度渡米した後ビザの関係で一度帰国した際、地方巡業に同行し下働きをしていたことがあるそうで、まったく下積み経験がないわけではないのです。

それでも、当時の日本プロレスで坂口さんがいかに優遇されていたかがうかがえます。

ビッグ・サカ

NWAの主要テリトリーを転戦して「ビッグ・サカ」などのリングネームで活動し、凱旋帰国後は、ジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんに次ぐスターとなりました。

1971年9月には猪木さんとのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に出場し、優勝を果たします。

対ドリー戦

その後、12月の猪木さんの日プロ追放に伴い、代役として12月9日にドリー・ファンク・ジュニア選手のNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残しました。

この試合はワールドプロレスリングクラシックスで見ましたが、実況が坂口さんのUN王座とのダブルタイトルマッチのようなことをいっていました。

混乱の象徴

もっともそれが正式に記録には残っていませんが、水面下で混乱する日本プロレスを象徴するような出来事だったと思います。

この試合で印象的だったのは、のちに全日本プロレスへ合流するメンバーがドリー選手に、新日本プロレスに合流する藤波さんらが坂口さんのセコンドについていたことで、ここにも日本プロ分裂の火種がみえるようです。

新日本へ

坂口さんは1973年4月、猪木さんと全く対等の条件という約束で、新日本プロレスに移籍します。

坂口さんの合流を条件に当時のNETはテレビ中継「ワールドプロレスリング」を開始し、テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスの救世主となりました。

黄金コンビ

坂口さんと猪木さんとのタッグチームは「黄金コンビ」と呼ばれて大活躍しますが、移籍後は新日本の№2として、また副社長として新日本プロレスを支えていきます。

坂口さんの現役時代は、1974年8月16日に猪木さんと獲得した、北米タッグの印象が強いですね。

裏方のイメージ

しかし、1973年にNWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がつき、坂口さんは2番手として猪木さんをサポートする側に回るようになっていきます。

長く守っていた№2の座も1985年に敗北を喫した藤波さんに譲り渡したあたりから、裏方のイメージも強くなっていきます。

人間的に実直

また、猪木さんが始めた異種格闘技戦には、元柔道日本一の肩書にもかかわらずあまり出場しませんでしたが、坂口さん本人は回想で「あの頃は自分と体格的に釣り合う格闘家があまりいなかったから」と語っています。

坂口さんは、人間的に実直と言われ、社長就任に際しては自ら簿記を習い、自宅を抵当に入れたこともあったそうです。

負債を完済

このため金融機関から高い信頼を得て、猪木社長時代に生じた負債を完済し、新日本プロレスの発展に大きく貢献しました。

新日本プロレスの営業部長を務めた大塚直樹さんは坂口さんを「組織人として管理能力のある人」と評しています。

1990年2月10日

温厚な性格で滅多なことでは感情を表に出すことはなかったそうで、またライバル団体である馬場さんとは団体を別にしてからも交流がありました。

1990年2月10日の東京ドーム大会で目玉とされていたリック・フレアー選手の来日キャンセルにより、当時新日本プロレスの社長に就任していた坂口さんは、馬場さんに全日本プロレス選手の貸し出しを打診します。

ベルリンの壁崩壊

馬場さんは「ああいいよ、おまえの社長就任祝いだ」と快諾し、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、二代目タイガーマスク、スタン・ハンセンの五選手が新日本プロレスのリングに上がりました。

当時は、東西ドイツになぞらえて「プロレス界のベルリンの壁崩壊」という大きなニュースになりました。

ビッグイベントを成功

坂口さんは1989年、新日本プロレスの社長に就任。その後はセミリタイアとなりますが、1990年3月15日、社長業に専念するため地元の久留米にて現役を引退します。

以降、社長として東京ドーム興行や「G1 CLIMAX」など数々のビッグイベントを成功させ、前社長のアントニオ猪木さんが作った借金を完済しました。

いつまでもお元気で

2005年4月1日 から続いて新日本プロレスの相談役として時折、表舞台に現れる坂口さんも御年81歳。

いつまでもお元気でいらしてほしいと思っています。

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プロフィ―ル~MY STORY~がん・緑内障・うつ・介護の4重苦にも負けないプロレスブロガーの壮絶な人生
プロレスオタクで心理カウンセラーの資格を持ち、両親の介護をしながらガンサバイバーとして生きる著者が、自分の人生や仕事について赤裸々に語ります。プロレスやオタク文化に関する豊富な知識や経験、心理カウンセラーとしてのスキルや活動、介護やガンサバイバーシップに関する悩みや工夫など、興味深く感動的な内容が満載です。あなたも著者のストーリーに共感しませんか?







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