プロレス的発想の転換のすすめ(107) 生きる闘いとプロレス
普遍的な社会の縮図
今回は「生きる」こととプロレスのお話です。
「世界のクロサワ」こと黒澤明監督の作品に、『生きる』という映画があります。
主人公が胃がんを患っていることが判明する悲劇的な展開や、印象深いラストシーン、そして随所に盛り込まれた鋭い社会風刺が特徴です。
本作は喜劇映画に分類されますが、私はこの作品を見て笑ったことは一度もありません。
変わらぬ人間の悲喜劇
この物語がゲラゲラと笑えないのは、シニカルな目線で日常が冷徹に切り取られているからでしょう。
『生きる』には、住民の陳情が市役所や市議会の中でたらい回しにされる有名なシーンがあります。
作品が製作された1952年、あるいはそれ以前から、人間社会の本質はあまり変わっていないのかもしれません。
実際、私自身も役所へ相談に行った際、窓口をたらい回しにされる経験をしました。
停滞する日常への嘆き
公開当時は風刺として笑えたのかもしれませんが、半世紀以上が過ぎても変わらぬ実情には、ため息しか出ません。
ただ、この50年の間に医療は飛躍的に進歩しました。
今や早期発見さえできれば、がんは決して不治の病ではなくなっています。
しかし、私たちの「生き方」そのものは、医学の進歩ほど劇的に変わってはいないのではないでしょうか。
覚悟がもたらす再起
よく「死ぬ気になれば、生まれ変わったつもりで生きられる」と言われます。
劇中で志村喬さんが演じる、胃がんを告知された主人公は、自らの余命を知ることで「生き直す」決断をしました。
死の淵に立つことで初めて、彼は形式的な役人の殻を脱ぎ捨て、一人の人間として「闘い」に身を投じたのです。
変革を阻む日常の檻
ところが、現実には「もうすぐ死ぬ」というほどの切実さがなければ、人は容易には変われないのだと痛感しました。
長年慣れ親しんだ生活習慣や、強固な社会システムから抜け出すことは容易ではありません。
明日死ぬかも分からない不確かさから目を背け、とりあえず今日を平穏にこなす。
そうして数十年が過ぎ、ある日突然、空白の時間に愕然とするのが市井の人間の一生なのかもしれません。
闘いの中に宿る真理
そんな停滞した日常から脱却するきっかけとして、プロレスとの邂逅は一つの希望となります。
「プロレスは人生の縮図であり、闘いです。
道を一歩踏み出し、自ら闘いを選択することで、人生は確実に充実へと向かいます。
好きなことを愛し、夢を叶えるために突き進む過程で、私たちは真の勇気が必要であることに気づかされるのです。
挑戦が生む再生の道
まさにプロレスは人生そのものです。
もちろん、レスラーになるには運や環境、適性が重要であり、誰もがリングに立てるわけではありません。
しかし、その過程で積み重ねた努力は、後の人生において決して無駄にはなりません。
プロレスは時に「自分は変わることができる」と信じさせてくれる、魂の闘いです。
夢が形を変えたとしても、変化した自分として日常に戻り「生き直す」ことができれば、そこには新しい人生が待っています。
覚醒を呼ぶ魂の叫び
ところが、日常の引力は強く、一度は固めた決意も時間とともに鈍りがちです。もし決意が揺らいだと感じたら、その違和感を無視しないでください。
人間心理において「変わりたい」という欲求が最も純粋に噴出するのは、絶望の底で「このままでは終われない」と魂が叫んだ瞬間です。
プロレス界でも、バッシングの嵐の中で「俺の言ってること、お前らにわかるか?……わかんねぇだろうな」と孤独な闘いを続けた天龍源一郎選手のような強固な意志が、見る者の心を打ちます。
「生きる」ための闘い
周囲の冷笑を跳ね除けて「自分の居場所」をゼロから作り上げる事は、まさに「生きる」ための闘いそのものでしょう。突き動かしたのは、既存のシステムに埋没することを拒絶する、狂気にも似た「変わりたい」という切実な願いです。
あなたが本当に変わりたいと願った時、アントニオ猪木さんのこの言葉を思い出してください。
「迷わず行けよ、行けばわかるさ」
あの胸を締め付けるような切実な気持ちを抱えたまま、一歩前へ踏み出すこと。
その「闘い」の継続こそが、死に体だった日常を、鮮やかな「生」へと塗り替えてくれるはずです。
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