プロレス的発想の転換のすすめ (132)魂との共鳴
自分語りとプロレス
今回は自分語りとプロレスのお話をします。
私はプロレス生観戦歴40年のプロレスファンで、プロレスに関するブログ記事や動画を作ってきました。私は自分の思いや考えを表現することが生き甲斐になっています。
また、アニメやマンガ、映画なども好きで、特にB級映画が好物です。
私は子供の頃からプロレスに夢中でした。私は自分でプロレスラーになることはできませんでしたが、イラストや文章でプロレスの魅力を伝えることをしてきました。
大人になって私は多くのプロレスイベントに参加し、プロレスラーと交流する機会もありました。またプロレスを通じて多くの仲間や友人を作りました。
しかし、私の人生は決して平坦なものではなかったのです。
低い自己肯定感
私は幼いころからどうせ自分はいらない人間なんだ、という感覚にとらわれて生きてきました。今でいえば自己肯定感が低めだったといえます。この時点で自分と向き合おうとしなかったばかりに、その矛盾にすら気づかず、息苦しさばかりを抱え込んでいくばかりでした。
そして、その原因が何なのかさえ自分自身わからなかったのです。この時代に偶然にも私はプロレスを見始めました。
と言ってもそれは能動的な動機ではなく、祖母が好んで見ていたせいもあります。
当時はプロレスだけでなく、ボクシング、キックボクシングなどが毎週ゴールデンタイムで放送されていた時代でした。
狂虎に救われて
そこで、私は一人のレスラーにくぎ付けになりました。それがインドの狂虎・タイガー・ジェット・シン選手でした。
当時の私にとって手段を選ばず猪木さんを襲い続けるシン選手はヒーローでした。忘れもしない「新宿伊勢丹事件」は、いじめられっ子だった私にとっては「福音」ですらありました。
私にとって猪木さんはヒーローではなく、自身を投影できるのは「インドの狂虎」だったのです。
私は小学校時代に暴力によるいじめを受けていました。喧嘩が弱かった私は、なすすべなく暴力に屈してしまい、涙にくれていました。当時は正々堂々真正面からぶつかることこそが喧嘩の流儀だと思っていたのです。
目覚めたきっかけ
しかし、シン選手は手段を選らばずに猪木さんへ立ち向かっていきました。
そこで私は目覚めたのです。そこから私はところかまわずいじめっ子を急襲していきました。もちろん噛みつき・目つぶし、なんでもありです。
当然逆襲にもあうのですが、自分の中に眠っていた何かが目覚めた瞬間でした。
しかし子どもの気持ちは移り気なもので、当初夢中になって見ていたものの、いつしかプロレスから離れていきました。
炎上と恐怖の闇
さて、19歳の時に自分でも忘れられない出来事がありました。とあるアニメ月刊誌に私が書いたアニメの感想が載りました。その内容は人間否定ととられかねない内容でした。
私の文章に対しては、編集部、読者、コーナー担当者も総出で「思い上がりだ」と一斉に非難を浴びせてきました。
もちろん私に今でいうところの「炎上」させる意図はなく、単に感想を述べただけにすぎません。
ですから、この思いもよらない反応に私はすっかりビビりあがり、慌てて謝罪文を書いて投稿しました。
ただ、30数年前はまだネットもなく、月刊誌なので、私の謝罪文が載るまでは数か月を要し、その間ずっと私は「人間否定論者」として活字に責め続けられたのです。
プロレスとの再会
この間、駅のホームに立つと本当に線路に吸い込まれそうな感覚になったことをよく思い出します。この出来事がきっかけになって20代の最初には人間恐怖症にもなっていました。
こんな時代にプロレスと再び遭遇しました。きっかけは偶然見た藤波さんと長州さんのいわゆる「名勝負数え歌」でした。
このきっかけをくれたのはまたしても祖母でした。ここから現在まで私はプロレスファンのままでいますから、振り返ってみると節目節目で祖母がかかわってくれたことが、私の人生を大きく左右していたのです。これには感謝しかありませんね。
苦難の末の病気
ただ、「このままではいけない」と自分に負荷をかけて、あえて恐怖症克服のために、営業職を選んで就職しました。
しかし人間恐怖を抱えたまま勤まるほど営業というのは甘くありません。成績の上がらない私は、8年後会社から追い立てられるように退職を余儀なくされました。
この時、自分には「続ける」才能があると思い知りました。
望まぬことでも
もしかすると、あなたにも、好きなことなら時間を忘れて没頭する体験がおありになるかもしれません。
好きなことなら、まだわかるでしょうけど、私の場合、自分が望まないこと、自分がイヤなことでも続けられたのです。
それが自分にとって「仕事」だったわけですね。この傾向は転職してからむしろ強化されてしまいました。そして転職先でも苦難が続き、40歳でうつ病を発症し、寝たきりになりました。
そこから2年間天井だけを見つめ、栄養は点滴だけという生活が続きました。この頃は原因を周りのせいにばかりして過ごしていました。
長い間寝込んでいると、一向に成果を出せない私を両親が厳しく叱責してきました。結局パソコンの基本訓練に通うことになりましたが、そこでも他の受講生との軋轢に悩まされました。
自分との闘いへ
失意の中、次の展開を考えなければならず途方に暮れていた時に一枚のチラシと出会いました。
それが北九州で心理カウンセラーの養成を行うという、後に私が通う学校のものでした。ここでやっと自分と本気で向き合う必要性を痛感したのです。
学院ではカウンセリングのやり方を主に学びました。授業は月2回3時間の二コマずつでした。
それほど負担にならないと思っていましたが、現実は結構厳しいものでした。
そして、自分自身と向かい合う「闘い」は今もなお現在進行形で続けています。北九州に通うようになって体験した、大きな変化の一つにヨガとの出会いがあります。
カウンセリングについては、心の面からアプローチして、問題解決に励んできましたが、身体に刻まれた記憶というのはそう簡単に抜けなかったのです。
より脱力できる人生
最初はやはり運動から離れていたブランクで、今なら楽勝でできるポーズでさえ、悪戦苦闘していました。
そして、想像以上に自分の身体に余分な力が入りすぎていることに、愕然とさせられました。自分はリラックスしているつもりが、無意識のうちに身体を強張らせていたことに気付かされたのです。
身体を強張らせて、長い間身を守り、習慣化させてきたことは、一朝一夕では解決できない課題として、今も取り組み続けています。
まだ道半ばという感覚もあるので、今後も自分と向き合って、無駄な力を入れずに済むように、より脱力できる人生を送るために、続けていきたいと思っています。
介護と闘う日々
さて、年齢を重ねてくると直面するのが介護問題です。
介護はある日突然やってきます。実はゆっくりゆっくり忍び寄ってくるのですが、目には見えないため、意識したときには大変なことになっています。
私は40代でうつ病を発症し、自分の人生にも悩んでいましたが、その裏で両親も高齢化していました。
父は脳梗塞と心臓の手術を経験し、母は膝の手術を受けました。二人とも要支援となり、リハビリに通うようになりましたが、すぐにやめてしまいました。
介護に追われる日々
その後、私は一人暮らしを始めましたが、2020年に母が腹痛で入院し、2021年には父が脳出血で倒れました。コロナ禍で面会もできず、両親の介護に追われる日々が始まりました。
父の入院は長期に及びました。加えてコロナも収束せず、面会は一切できないまま時間が過ぎていきました。父がいなくなり、食事を作る必要がなくなった母はこの頃から家事を全くしなくなり、ソファーに寝転がってテレビだけを見るという生活になっていきました。
自分に訪れた異変
父が倒れてから4か月後、今度は私に異変が起きました。背中の痛みが取れなくなってきたのです。人間ドックを受けたところ、悪性リンパ腫の可能性があると言われてショックを受けました。
9月に入院して手術を受けましたが、それだけでは治らず、抗がん剤治療も必要になりました。
手術後は高熱にうなされて苦しみました。この時期入院中は父の面会もできず、母は一人でデイサービスに通っていました。
私は母や父のことを心配しながらも、自分の命をかけた「闘い」の生活を送ることになりました。
友の死と向き合う
最初の入院中にさらにショックな出来事がありました。
私はプロレス観戦を通じて長年親しかった友人がいました。私は入院中、彼が自室で突然死していたと知らされました。
葬儀もすでに終わっていて、私は彼に別れを告げることもできませんでした。
それを考えると、とても悲しくなりました。彼の死で、私は自分の死を強く意識するようになりました。私は一線を超えずに助かったのですが、友人は超えられなかったのです。
意識した死の瞬間
私と友人とは本当に紙一重だったのだと思いました。そして、いついつか自分にも来るであろう死の瞬間を意識するようになりました。
私が入院していた後半くらいから母が1人で徘徊して、救急隊員に救助されるという事件がありました。私の携帯に連絡が入るのですが、私は入院中でどうすることもできませんでした。
この頃から、退院してもまだ問題は山積みだという嫌な予感しかしていませんでした。
案の定、6ヶ月の抗がん剤治療を終えた後も、試練は続きました。母は徘徊する割には歩行も困難になっており、ついにはトイレに這って行かなければならなくなるほど足腰が弱っていました。
2023年に入ってからは、月に1回救急車を呼んで母を運び込むという事態になってきました。
逆境を越える力
当初はリハビリのため別な病院に入院させるはずだったのですが、母が肺出血からの膠原病が疑われるということで別な病院に入院することになりました。
しかし、ここは認知症棟がなく治療のため入院していたはずの母は、4日ほどで強制退院させられてしまいました。
加えて2022年の10月頃から突如浮かび上がった父の財産を管理する成年後見人制度の問題も私の頭を抱えさせる問題の一つになっていました。
この両方をこなしつつ自分の体の治療もしなければいけませんでした。しかし働きに出なければ治療するお金もないというギリギリの生活を強いられることになりました。
さらに最悪だったのは母がいつものように這ってトイレに行こうとしたときに肩を脱臼してしまい救急車で運ばれたことでした。
運ばれた先は入院を拒絶された病院だったのも皮肉な話ですが、そこでどうにか治療を終えて再び母は実家に戻ることになりました。
自分の時間を取り戻して
しかしこの状態の母と一緒に暮らすのは正直言って限界がありました。ですのでこの頃のストレスはマックスだったと私も思っています。
ところが運よく認知症病棟の病院が呼吸器外科のある病院と連携してくれることがわかりそこからトントン拍子に母が別の病院の認知症病棟に入院することになりました。
やっと自分の時間を取り戻すことができた私は、ここでようやく仕事を探しに行くことができるようになったのです。
必要とされる喜び
この時点で家の預貯金は家族三人が生活するには全然足りておらず、私の就職は急務でした。
しかし入院が決まった後は放心状態になってしまい、1か月棒に振った後、ようやく働くことが出来るようになりました。
正直今も収入は全然安定していませんが、必要とされる喜びとやっと手に入れられた自由が心地よかったですね。
予測不可能な人生
人生は予測不能であり、いつ何が起こるかわからないということです。
父も私も友人も、突然の出来事に見舞われました。それに対して、どう対処するかは自分次第です。
くよくよしても事態は変わりません。前向きに生きるしかありません。
人生観や価値観の見直し
また、人生は有限であり、いつ終わるかわからないということです。
私も友人も、死に直面しました。それに対して、どう生きるかは自分次第です。無駄に過ごしても意味がありません。大切に生きるしかありません。
私はこの経験を通じて、人生の本質を見つめ直すことができました。
そして、自分の人生観や価値観を見直すことができました。
私はこの記事を読んでくださったあなたにも、同じように人生を見つめ直してみてほしいと思います。そして、自分の人生を大切に生きてほしいと思います。
プロレスが支え
このように、ここ数年の私は自分の仕事や趣味を犠牲にして、両親の世話をしました。
私は時には孤独や苦しみを感じましたが、プロレスが私の支えでした。
私はプロレスを見ることで元気や勇気をもらいました。
入院中もプロレスを見たり、ブログを書いたり、YouTubeに動画を投稿したりしました。私は自分の体験や感想を共有することで、多くの人から応援や励ましをもらいました。
自分の思いを表現
今、私は退院して仕事も始め社会復帰し、前向きに生きています。
これからもプロレスを見続けて、自分の思いを表現していきたいと思っています。
しかし私の言うことは私の個人的な意見や感想です。
誰かを批判したり、自分の意見を押し付けたりするつもりはありません。今後も私は病気と闘いながら、自分の人生とプロレスファンライフを歩み続けていこうと思っています。
不屈を体現する物語
プロレス界には「不屈」を体現する物語が溢れています。
例えば、かつて大事故で再起不能と言われながらも、壮絶なリハビリの末にリングに戻ったレスラーや、病魔に襲われながらも最後の一瞬まで「闘い」続けた選手たちがいます。
人間として、私たちは彼らの姿に自分の苦難を投影し、勇気を得るのです。
魂との共鳴
私が絶望の淵に立たされた時、脳裏をよぎったのは、どれほど打ちのめされても肩を上げるレスラーの姿でした。
友人の死、病、介護、それらすべての逆境は、私にとっての人生そのもの。
私はこれからも、自身の魂と共鳴しながら、人生というマットの上で最後まで闘い抜こうと思っています。
にほんブログ村


