【プロレス】私的プロレススーパースター烈伝(102)木戸修

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

私的プロレススーパースター烈伝(102)木戸修

いぶし銀のイメージ

今回は、新日本プロレスで活躍し「いぶし銀」として知られた元プロレスラー木戸修さんのお話です。

木戸修さんは、グラウンドテクニックの名手です。カール・ゴッチさんから直接レスリング技術を学び、UWFや新日本プロレスで活躍しました。2001年に引退しましたが、その後もビッグマウスやハッスルなどで復帰しました。長女はプロゴルファーの木戸愛さんです。

日プロ→新日へ

木戸さんは、1968年10月に日本プロレスに入門し、1969年2月21日にプロレスデビューしました。

アントニオ猪木さんが日本プロレスを除名された翌日1971年12月14日に、藤波辰巳さん共々日本プロレスを退団し、1972年3月に新日本プロレスの旗揚げに参加します。

ゴッチの息子

木戸さんは海外遠征時アメリカの「カール・ゴッチ道場」の門を叩き、ゴッチさんから直接レスリング技術を学んでいます。

ゴッチさんは木戸さんを「息子」「私の領域に一番近付いた男だね」と評しているのは有名な話です。

第一次UWF

帰国後の新日本では、地味なファイトスタイルや寡黙な性格が災いして前座試合の出場がメインとなりました。

しかし1984年9月から第1次UWFに参加すると徐々に評価が高まり、職人肌のグラウンド・テクニックは「いぶし銀」と呼ばれるようになりました。

格闘技ロードで優勝

また、1985年に行なわれたUWF内の格闘技ロード公式リーグ戦では優勝し、一気に評価をあげました。

1985年12月に第1次UWFの崩壊に伴い新日本へ復帰すると、キド・クラッチや脇固めを駆使して活躍するようになります。

IWGPタッグ王座

1986年8月、前田日明さんとのタッグでIWGPタッグ王座を獲得しました。これは怪我をした藤原組長の代役でしたが、前田さんは「木戸さんにベルトをまいてほしかった」とコメントをしています。

大技の攻防が日常化していく1990年代以後の新日本の中では一人、地味ながら切れ味鋭いレスリングスタイルを貫いた木戸さんは「新日本の良心」として、特に札幌地区での人気はすさまじいものがありました。

札幌男

木戸さん自身と札幌とは特に縁があるわけではないが、新日本の札幌大会はハプニングが頻発し、しっかりとした試合が提供されないことが多かったため、 札幌大会では会場中に応援ののぼりが立ち、札幌の後援者から贈られたハッピを着た木戸さんが登場すると大歓声が沸きあがりました。

専門誌はその現象を「木戸の異常人気」として伝え、後に木戸さんは「札幌男」と呼ばれるようになり、札幌ドームのこけら落としでの大会では全選手代表としてオープニングの挨拶まで行なっています。

90年2月10日

白眉だったのは、1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で木村健悟さんと組み、ジャンボ鶴田・谷津嘉章組と闘い、鶴田さんを相手に渡り合った試合です。

また1992年から始まったWARとの対抗戦において、天龍のパワー、打たれ強さに新日勢が苦戦する中で、関節技を主体とする木戸さんの存在が切り札としてクローズアップされました。

対天龍戦では

そしてWAR勢との5対5のタッグマッチに出場した木戸さんは脇固めやアキレス腱固めといった関節技で相手を苦しめ、天龍さんの右腕を破壊します。

この試合で試合終了までほぼ行動不能に追い込む活躍を見せ、新日本勢の勝利に大きく貢献しています。

優しい人柄

2001年11月2日、1度目の引退では、関東各地の後援者のほか遠く札幌からも応援隊が駆けつけ、試合後の引退セレモニーではカール・ゴッチさんからのメッセージが代読されるなどしました。

控室での本人のインタビューでは盛んに「家族」という言葉が発せられ、家族思いの優しい人柄が改めて確認できるものでした。

復帰→コーチへ

2005年9月11日にビッグマウス所属選手としてビッグマウス・ラウドで復帰します。2007年11月、ハッスルのハッスル軍コーチを務めました。

2010年2月22日、IGFプロレスリング「アントニオ猪木50th Anniversaryスーパーレジェンドマッチ」にも参戦しています。

自身のスタイルを

木戸さんはカール・ゴッチ源流のサブミッションを武器に周りの状況がどんなに変わろうと、対戦相手が誰であろうと自身のスタイルを貫き通しました。

そのこだわりぶりはボディスラムやブレーンバスターなどの汎用的な技でさえあまり使用することはなかったほどでした。

キドクラッチ

うつぶせ状態の相手の片腕を肩の付け根付近で脇に挟んでアーム・バーに固め、肩を支点にテコの原理で肩と肘関節を極める脇固めは、藤原組長と共に随一の使い手でどんな体勢からでも一瞬でこの技に切って落とす仕草が、最大の見せ場でした。時に直角にもなるそれは高角度脇固めとも呼ばれました。

また、フォール率が極めて高いキドクラッチは、ボディ・スラムやサイド・スープレックスなどを仕掛けてきた相手に対し、相手に背中を向けた状態から片腕と片足を捕らえ、背中越しにエビ固めに捕えます。

バリエーション

相手が屈んだ状態のとき脇固めを仕掛け、前転で逃れようとした相手に仕掛けるなど、切り返しのバリエーションが数多く存在します。

IWGPタッグ戦で木村健吾相手に初披露した際、この技で第2代王者となっています。

心酔に近い感情

木戸さんはゴッチさんに対して心酔に近い感情を持っていた事も知られています。

第1次UWFに移籍した際も雑誌のインタビューで理由を「ゴッチさんに誘われたから」とコメントしていますし、また第2次UWFへ新日より移籍する選手が続いた頃、記者に「木戸さんは行かないのか?」と聞かれた際に「ゴッチさんがいないから」とコメントしています。

中邑選手を育成

これは当時、佐山聡さんのスーパータイガージムに指導にいったことが原因でゴッチさんは第2次UWFの顧問から外れていました。2002年に新日本プロレス入門後に道場で木戸さんから指導を受け、同年8月のデビュー戦では、木戸さん直伝のワキ固めを披露するなど、関係が深かったからです。

さて、木戸さんは1度目の引退時は、コーチとして新日本に残り、現在、米プロレス団体WWEのトップレスラーとして活躍する中邑真輔らを育成しました。

練習の虫

中邑選手は自身のXで「私の最初のレスリング指導者」として追悼していkます。

練習の虫であり、コーチをしている時も千回単位のヒンズースクワットなどを無言で長時間に渡って淡々とやるために、他選手は精神的プレッシャーになったといいます。

がんとの闘い

そんな中木戸さんは、数年前から、がんを患っており、抗がん剤治療などを受け続けていたそうです。

訃報が伝わったのは12月14日でした。11日の午後10時過ぎ、神奈川・横須賀市内の病院で亡くなれたそうです。73歳という若さでした。

ご冥福を

正直同じがんと闘う人間として人ごととはとても思えません。できれば、隠れた名手としてマニアをうならせたドロップキックや、若い頃から愛用していた打撃技でああるエルボースマッシュを今の世代に伝授してほしかったですね。

木戸修選手のご冥福をお祈りいたします。

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