プロレススーパー人物列伝ジョー樋口
柔道を習って
今回は全日本プロレスでレフェリーを務めプロレスリングノアでも活躍された、ジョー樋口さんのお話をしてみたいと思います
ジョー樋口さんは少年時代から柔道を習っておりました。
外国人係の仕事に
そして終戦後に進駐軍に対して柔道を教えていた経験があり、その時に学んだ英語力が後々日本プロレスや全日本プロレスでの外国人係の仕事に役に立ちました。
柔道からプロレスに転向したのは1955年でした。
当初は選手として
当時山口敏夫さんが主催していた全日本プロレス協会に入団し、選手として活躍します。
しかし団体崩壊後は吉村道明さんとともに日本プロレスに移籍します。
そして1960年に引退して、一旦プロレス界からは離れることになります。
レフェリーデビュー
日本プロレスには外国人が日本プロレスには外国人係として復帰します。
しかし、1966年に沖識名レフェリーの後釜として、レフェリーデビューを果たすことになります。
大層な料理好き
ジョー樋口さんが日本プロレス時代から外国人係に抜擢されていた原因の一つは英語力でしたが、もともとジョー樋口さんは大層な料理好きだったのです。
遠征中に選手が滞在する旅館で無理を言って厨房を借り、ステーキやサラダスープなど、日本では当時まだ珍しかった洋食を次々とつくり外国人選手にたいそう喜ばれたそうです。
直接わしにも食わせろ
幼い頃からそうした西洋文化に接していた体験が役立っていたわけですね。
それを耳に挟んだ力道山さんからも「直接わしにも食わせろ」といわれ、料理を振る舞ったこともあるんだそうです。
毅然とした態度
このように外国人レスラーからは多大な信頼を寄せられておりました。
しかしわがままなレスラーに対しては毅然とした態度をとるところもありました。
この辺はレスリングにも生かされているところでもあります。
ナイフを振りかざした
あるレスラーがあまりのワガママを言うものですから、樋口さんがそこにあったビール瓶を持ってケースごと持ってその選手に叩きつけ、そこに落ちていたナイフを振りかざしたこともあったんだそうです。
そのぐらいジョー樋口さんというのは実は毅然とした人物だったんですね。
全日本プロレスへ
日本プロレスが崩壊した後は、ジャイアント馬場さんが率いる全日本プロレスに旗揚げから入団します。
こちらでもレフェリーと共に外国人係を担当することになります。
一躍知名度が
馬場さんの試合は必ずと言っていいほどジョー樋口さんがさばいていたたため、ジョーさんの知名度は一躍あがったのです。
スキンヘッドに青いコスチュームというのは非常に印象に残り、テレビ映えして、画面でも印象に残るレフェリーでもあったのです。
NWA からも信頼
その厳格なレフェリングぶりは NWA からも信頼を置かれており、 NWA のオフィシャルレフリーという役割を担いました。
また1974年にはジャックブリスコ対ドリーファンクジュニアの NWA 世界ヘビー級選手権をさばいて日本人で初めてオーディトリアムで行われた試合をさばいた日本人となりました。
観客を飽きさせない
ジョー樋口さんが登場するまでのレフェリーのイメージは、どちらかといえば地味な黒子という存在でした。
しかし、ジョー樋口さんは、よく足を使い試合がストップした際でも観客を飽きさせないレフェリングを心がけていたんだそうです。
失神する流れ
例えば試合がグランドになって膠着した時に「ワッチャギブアップ?」という掛け声をかける工夫も、樋口さんならではのテクニックだったそうです。
また1980年代中盤から煩雑に見られた樋口さんが選手にぶつかって巻き込まれて失神をする一連の流れがありました。
これもジョー樋口さんが元プロレスラーでなかったらできなかった芸当ではないかと思います。
大型選手
当時、樋口さんがさばいていた選手達は、皆大型選手ばかりでした。
今の小型化したレスラーから比較すると比べ物にならないダメージがあったのではないかと思います。
そうした選手たちがまともにぶつかってきたら、いかに元レスラーといえどもひとたまりもなかったでしょう。
不透明決着を嫌うファン
ジョーさんが失神状態になるのは、お約束ごとといえばお約束ごとではあったんですが、ファンからすると、不透明決着を嫌うという流れが出てきました。
そのせいか、この失神劇は1980年代後半には見られなくなっていくようになります。
原因は
それは樋口さんの体力的な問題もあったように思いますし、四天王時代になって試合のスピードもアップしたことも原因のひとつといえるでしょう。
ちなみにこの当時の樋口さんは、受け身を取っていたために大事には至らなかったようです。
説得力の元は
全日本・新日本・ノアといった主要どころのレフェリーは皆ジョー樋口さんの影響を受けています。
ただ、ジョー樋口さんの失神がなぜを説得力を持っていたか?
受け身の技術
それは2 M 級の巨大な選手がぶつかってくるという迫力に尽きるわけです。
加えてジョー樋口さんが元プロレスラーであり的確な受け身の出る技術を持っていたということも大きいわけです。
レスラー経験がないと
やはりレスラー経験がないレフェリーが行ってしまうとどうしても中途半端にうつってしまうのかもしれません。
そもそもレフェリーはリングの上では絶対的な権力者であるべきであるというのは、和田京平さんがジャイアント馬場さんから教わってきたことなんだそうです。
葛藤があった
樋口さんの場合はここで試合を止めるべきなのか、それともエンターテイメントとしてお客さんが納得をしてくれるまで試合を続行すべきか、非常に悩んだ末悩んだ末に判断されていた、と後々語っておられます。
ベテランレフェリーであっても葛藤があるのだなあというふうに私は思いました。
肉体にダメージ
ジョーさんはレフェリー生活でマットを叩きつけマットを叩き続けたため肉体にダメージが残ってしまい、左手と右手の手のひらの大きさが違っていたのは有名な話です。
また腕の曲げ伸ばしも思い通りにできなかったそうで日常生活でも手が震え食事の際に箸が持てずスプーンで食べることが多かったんだそうです。
約束事
1990年代になるとリングアナが選手をコールした後レフェリージョー樋口と宣言すると観客が「ジョー!」と大歓声をあげるという流れがお約束になっていきました。
これは元々和田京平さんに対して京平コールが起きた時を同じくしておりまして、全日本プロレスではこう言ったと約束事は未だに守られております。
全日本退社
樋口さんは1999年のジャイアント馬場さんがお亡くなりになられた後、東京ドームで行われたジャイアント馬場引退記念大会で特別レフェリーとして来場した後、全日本プロレスを退社しました。
以降プロレス界とは関わりを持たないと宣言し、隠遁生活を送っていました。
NOAHへ
しかし、プロレスリングノアの仲田龍氏から「どうしても手伝ってほしい」と頼まれ、 GHC管理委員長ならびにプロレスリングノアの監査役に就任しました。
ジョー樋口さんは2010年9月上旬から東京都内の病院に入院して治療を受けておられたものの、11月にガンのためにお亡くなりになられております。享年81歳でした。
テキサスプロレス殿堂入り
長年のプロレス界での功績が称えられ2010年度プロレス大賞特別賞特別功労賞がジョー樋口さんには送られています。
また2017年10月25日全日本プロレスのレフェリー兼外国人係を務めて、来日していた外国人の面倒を見ていたことが評価され、レフェリーとしては初めてアメリカのテキサスプロレス殿堂入りを果たしています。
オリジナルを
ジョー樋口さんのレフェリングというのは厳格でありながら、なおかつお客様を飽きさせないようにするためのエンターテイメントでもありました。
と同時に受身の技術がきちんとしていたということとやはりいざという時はナイフを振りかざすことも辞さないような覚悟が見えたからこそ、多くの方に支持されたんだと思います。
もしジョー樋口さんがご存命であるならば、自分の真似をするよりばオリジナルの流れを作るべきではないだろうかというふうに言われるのではないかなと私は想像しております。