プロレス的発想の転換のすすめ(119) プロレスと外連味の深層
外連の定義とは
今回は「ケレン味」とプロレスのお話です。
「外連(けれん)」は本来演劇、特に歌舞伎でよく使われる用語で、例えば綱渡りや宙乗りなどで観客を沸かせる演出を指します。
評価される演出
正統派の芸ではないけれど、歌舞伎にとっては「見せる」という大切な要素を受け持つものでもあります。そのため「外連味がある」という言葉は、良い評価として使われることが多いようです。
例えばヒーローもので、テレビでは揃わないメンバーが劇場版で勢ぞろいする展開などは、まさに「外連」と言えるでしょう。
正統派という土台
ここで大事なのは、外連とは「正統派」が中心にあって初めて成り立つということです。
DDTの秋山準選手は、最近このような言葉をよく使われています。
秋山選手の技術論
「プロレスって最初の後ろ受け身から始まって、高度な技術までを1から10までとすると、1から5までは普通の試合ではあんまり使わないんですよ。6から10で試合は組み立てられるし、あるいは1から5の内の2をまったく知らなくても試合は成立させられる。今の時代は6から10でやっちゃえるから、必要ないのかもしれないし、それでいいのかもしれないけど、僕らの時代は1から5というのを標準装備していないと試合ができなかった」(出典元・ドラマティック・ドリーム・コラム)
猪木選手の殺気
この「1から5」の重要性は、アントニオ猪木選手が提唱した「ストロングスタイル」にも通じます。
猪木選手は、派手な技(外連)の裏側に、相手をいつでも仕留められる「実力と殺気」という土台を求めました。
かつてカール・ゴッチさんから伝承されたレスリング技術こそが「1から5」であり、その盤石な基礎があったからこそ、延髄斬りや卍固めといった「外連味」のある技が、単なるパフォーマンスを超えた説得力を持ったのです。
外連が指す範囲
秋山選手の言葉を借りるならば、「1から5」までが正統派の部分、そして「6から10」までが外連に相当すると私は考えています。
現代プロレスの姿
私見ですが、現代のプロレスはほぼ「6から10」で構成されているように見えます。
もちろん「1から5」が出来てこその「6から10」ではありますが、そこだけで試合をしてしまうと、外連が外連ではなくなってしまうのです。
長州選手の「間」
長州力選手はかつて「闘い」の中では徹底したハイスピードな攻防を見せました。
しかし、それは決してデタラメな乱打戦ではありませんでした。
徹底した練習とベーシックな技術があるからこそ、あの「ハイスパート・レスリング」という外連が成立していたのです。
基本を極めた者が放つ「間」の使い分けこそが、観客を熱狂させる外連味の正体でした。
基本が魅力を生む
あくまでベーシックな部分をしっかり見せるからこそ「ケレン味」が引き立つわけで、外連を使い続けてしまうと、それ自体が標準になってしまいます。
ですから、現代のプロレスで外連味を出すには「11から20以上」まで見せなければならず、ハードルが上がり続けているのではないでしょうか。
選手の負担とリスク
そうなると、プロレスがより危険な方向に進んでいきかねないため、選手の身体的負担はかなり大きくなっていくでしょう。
加えて「1から5」のベーシックなプロレスを、観客側が「退屈である」と解釈しがちな現状も問題があると感じます。
スタイル差の消失
そもそも明らかなヘビー級レスラーが簡単に空中戦を仕掛けるなど、ジュニアヘビー級とのスタイル差も年々なくなっているように感じられます。
全体の「闘い」を通して外連味の部分を担ってきた役割まで、重量級の選手が担ってしまうと、軽量級の存在価値も問われかねませんし、何よりバランスが悪いのです。
止まらない過激化
何度も言いますが、外連はそもそも正統派ではないのです。
外連が普通になったら、それはもう外連ではありません。
しかし、一度上がってしまったハードルは簡単には下げられないのが、プロレスという「闘い」の難しさです。
敢えてやらない形
ですから「1から5までをすっ飛ばしたプロレス」は今後も主流になっていくでしょう。
今はまだ「1から5」までを理解している選手が「あえてやらない」という選択肢の中で「6から10」のプロレスをしているのだと、個人的には信じています。
失われる技術の形
しかし、近年問題になっていたロックアップのように、その意味合いすら理解していないままプロになるケースも増えつつあります。
試合の中で形骸化したスキルは受け継がれることなく、意味合いも薄れてやがては「失われた技術」になるでしょう。
仕組みを理解する
そうなった時に「1から5」までのプロレスを再現しようとしても、できる選手がいなくなっているかもしれません。
そうなる前に、どこからどこまでが外連であり、どこからがベーシックなのかを、選手も観客ももう一度理解し直したほうがよいのではないかと、最近私は考えているのです。
狂気が生んだ悲劇
外連はそもそも正統派ではない――この事実は、人間の「より刺激的なものを求める」という心理の危うさを物語っています。
かつてプロレス界では、観客を驚かせるための過激な外連がエスカレートし、取り返しのつかない事故や事件が起きてきました。
本来、基本に裏打ちされた「味付け」であるはずの外連が、いつしか主食となり、さらには劇薬へと変わってしまう。
1990年代の過激な四天王プロレスや、命の危険を伴うデスマッチの台頭は、その象徴かもしれません。
正道ではない境界線
「もっと強い刺激を」という大衆心理は、時に選手の安全意識や競技の根幹を飲み込みます。
外連が正統を駆逐したとき、そこにあるのは芸術的な「闘い」ではなく、単なる「暴走」に成り下がってしまいます。
外連を外連として楽しむためには、私たちはそれが「正道ではない」という境界線を、常に意識し続けなければならないのです。
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