地味なテクニシャン
今回は地味なテクニシャンから、怨念坊主へと転身した飯塚高史選手のご紹介です。
飯塚選手の入門は1985年5月で、1986年11月2日(日)豊浦郡豊浦町マリンピアくろいサンシャインビーチ特設リングにて野上彰(現:AKIRA)を相手にデビュー(7分40秒逆片エビ固めで野上選手の勝ち)。なおこの日は第四試合にて15人参加バトルロイヤルが行われており、飯塚選手も野上選手とともに参加しています。(10分5秒 ○ドン荒川 ●小杉俊二)
このマリンピアくろいは、1977年に、黒井漁業協同組合と組合員の共同出資により設立された「株式会社黒井漁協自然海浜センター」を運営母体に、海浜に面したホテル、スポーツ施設、レストラン、遊園地などを備えたリゾート型総合レジャー施設として開業した施設です。
漁協を母体にしたレジャー施設は珍しく、1980年代にはプロレスのほか、大相撲の地方巡業やジャズ・フェスティバルを開催するなど、夏場を中心に多数の来場者を集めました。1996年2月14日に羽生善治が史上初めて将棋の七冠を達成したのもマリンピアくろいのホテルでの出来事です。
厚遇された若手時代
しかし、開業当時から慢性的な赤字経営だったことに加えて1980年代末を期に入場者数が減少して採算が悪化、1997年頃閉鎖されました。このように当時のヤングライオンのデビュー地は現在では消滅しているところも少なくないのです。
飯塚選手は若手時代の1989年、馳浩さんと共にグルジアでサンボ修行を行っており、長州力さんと組んでのIWGPタッグ王座戴冠、ドラゴンボンバーズ入り、お膳立ての整った海外武者修行等々ヤングライオンの中では比較的厚遇されていました。
海外遠征からの帰国時、闘魂三銃士、馳、佐々木健介といったの5人にシングル戦を要求するマイクパフォーマンスをリング上で行い、エル・サムライ選手および野上彰選手との3人で「新世代闘魂トリオ」という形で売り出されましたが、シングル戦の希望は通らず、また性格の地味さもあってトップ戦線に割って入ることができなかった。また特に佐々木健介さんを代表として他の若手からも嫉妬されました。
それでも、新日本は1993年9月に野上選手と飯塚選手を組ませJ.J JACKSを結成させて売り出しました。J.J.JACKSは「ジャパニーズ・ジョリー・ジャックス」の略で意味は「日本の陽気な男たち」。
JJ JACKSは幾度かIWGPタッグ王座に挑戦するも獲得には至らず、1996年3月に解散しました。陽気なキャラとは裏腹に、ここでも飯塚選手の地味さが災いしたのです。しかし、技術的な点では確かなものをもっており、後に道場でコーチも勤めました。
怨念坊主へ・・・
個人的には90年代初頭、当時WCW所属だったロード・スティーブン・リーガルと、西日本総合展示場で一騎打ちを行っている試合が印象に残っています。このとき熱が8度近くありましたが、観戦にいき、もうろうとした意識の中で、この試合だけはっきり覚えていました。
サンボ仕込みのスープレックスやサブミッションを得意としていて村上一成との抗争で再び注目が集まり始める前後からは、特にグラウンド重視の試合を展開するようにりました。
また、新日本プロレスの道場長を務めていた経験からドロップキックなどの基本的な技のフォームにも定評がありました。怨念坊主化してからは自身のキャラクターに徹し、引退試合までそれを貫き通した。また2010年からはじまった野上慎平アナとの抗争は、解説のGK金澤克彦さんが、「飯塚にとって野上が自身の「J・J・JACKS」時代のパートナー・野上彰の亡霊に見えているからなのではないか」という推測を立てています。
そのAKIRA選手とは、2011年SMASHのリングにて激突。2011年の5月に突如としてSMASHのリングで二人の試合が発表され、因縁が再燃。試合は飯塚選手の反則行為により、AKIRA選手が反則勝ちを収めました。
引退試合でも飯塚選手は真っ先に因縁の野上アナ襲いかかり、野上アナがこの日のために用意した高級Yシャツと青義軍Tシャツを破り捨てました。その後、野上アナは半身裸のネクタイ姿で実況を続け、飯塚選手の引退を見送ったのでした。