炎の稲妻
今回は1973年にジャイアント馬場さんに憧れて全日本プロレスに「新弟子第一号」として入門し、翌年入門の渕正信選手、薗田一治選手と共に「若手三羽烏」と呼ばれた大仁田厚選手のご紹介です。
ここではFMW以降ではなく、あえて全日本時代の話を中心に書いていこうと思います。大仁田選手の転機は海外遠征中の1982年ノースカロライナ州シャーロットにて、チャボ・ゲレロ・シニアの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦し、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた一戦からです。
大仁田選手はこのベルトを引っさげて凱旋帰国し、当時ライバル団体の新日本プロレスで爆発的人気のあった初代タイガーマスク選手に対抗し、ジュニア戦線のチャンピオンとして活躍します。
大仁田選手は初代タイガーの4次元殺法のような華麗さ、アクロバティックさはないものの、無骨で荒々しく感情剥き出しなスタイルから「炎の稲妻」と呼ばれ人気を博します。
心残りになった最初の引退
ジャンボ鶴田選手、天龍源一郎選手に続く全日第4の男として注目されますが、1983年4月20日、東京都体育館でのヘクター・ゲレロ選手との試合終了後、リングを飛び降りた際に着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場。医師からは再起不能を宣告されました。
一度は復帰するも、かつてのような活躍は果たせず、馬場夫妻の勧告により1984年12月2日に引退を賭けて、新王者マイティ井上選手のインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗退し、1985年1月3日に後楽園ホールで引退式が行われました。
馬場さんは付き人の大仁田選手を可愛がり、養子にしようと本気で考えており、馬場元子さんは引退式後に大仁田選手を抱きしめて涙していたため、馬場夫妻にとっては苦渋の決断だったことが伺えます。
このように惜しまれた中での引退がのちに「引退→復帰」を繰り返す「心残り」になったことは容易に察しがつきます。一度は芸能界に身を投じてプロレスをふっきろうとした大仁田さんも、リングという魔物に吸い寄せられるように戻ってきました。それがいいかわるいかは別にして・・・
しかし、「涙のカリスマ」よりは「炎の稲妻」時代の大仁田さんを、私が好きだったのも事実です。大仁田さんが全日本でレスラー生命を全うしていたら、もしかしたら全然違う人生を歩んでいたかもしれないですね。