[プロレス用語辞典](サ行) ソビエトレッドブル軍団
ペレストロイカを機に
今回の用語辞典は、80年代末から新日本プロレスを席巻したソビエトレッドブル軍団のお話です。
1980年代後半から進められた、ソ連のペレストロイカを機に、協栄ジムの先代会長だった金平正紀氏がソ連人ボクサーの輸入を画策しました。
このときにソ連側からアマレスや柔道選手のプロ化の要望が出され、金平氏と縁のあったアントニオ猪木さんのところに話が回ってきたそうです。
プロレスラーの心得
猪木さんはさっそくソ連の有力選手たち30人ほどを招集し、馳浩選手らをコーチ役としてソ連に派遣します。
ロープワークや受け身の特訓を行ったところで猪木もソ連入りし、自ら「プロレスラーの心得」を説いています。それは…
「受け身は自分を守るだけのものではない。優れた受け身は、かけられた技が綺麗に見える。攻撃は観客に勇気と力を与える。相手にケガをさせないのもプロフェッショナルとしての技術だ。プロレスの最大の魅力は、人間が元来持っている怒りや苦しみといった感情を表現することにある。漢字の〝人〟という字は、互いに支え合っている。感動的な試合や激しい試合は、戦うレスラー同士の信頼関係から生まれる」(東洋経済ONLINEより引用)
と言ったものだったそうです。
高額のギャラ
しかし、当時、ソ連は相手側に高額のギャランティを要求していました。
猪木さんと新日本プロレスに対しても、それと同様に高額のギャラを要求していて、さらにはゲート収入のパーセンテージまで上乗せしようとしてきました。
契約書を破り捨て
猪木さんは、ソビエト側に
「こちらは民間人だから東京ドームの興行の中止は3億円くらいの赤字になるが、それだけで済む。でも、あなたたちは国家の代表だ。このままではあなたたちの顔は潰れ、ただでは済まないと思いますよ」
と告げ、更にはサインされることがなかった契約書を破り捨てて、ホテルに戻ったといいます。
呑めないものは呑めない
相手がどう出てくるかは、わからない。でも、呑めないものは呑めない、ということで猪木さんは賭けに出たのです。
しばらくして、猪木さんの部屋を訪ねてきたのは、バグダーノフ将軍でした。
内務省のナンバー2で、ソ連柔道連盟の会長でした。
お金の話しか
(猪木さん)「私はプロモーターである以上、お金は稼ぎたい。でも、彼らを日本に招聘する理由はそれだけではない。残念ですが、日本人はソ連に対して悪い印象を持っています。私はこの機会にソ連にはこんなすばらしい格闘家がいるということを日本はもちろん、世界にアピールしたい。それなのに、あなたたちはお金の話しかしない」
(将軍)「わかりました。私の権限で選手たちを日本に送ります。お金の話はイベントが成功した後にしましょう」
こうして、レッドブル軍団は日本にやって来ることになりました。
本物のソ連レスラー
ソビエトレッドブル軍団の陣容は、サルマン・ハシミコフ、ビクトル・ザンギエフ、ウラジミール・ベルコビッチの3選手でした。
それまでもロシア人ギミックのプロレスラーは多数いましたが、本物のソ連出身はレッドブル軍団が初めてのことでした。
1989年4月24日
1989年4月24日、新日本プロレスの記念すべき初の東京ドーム興行『’89格闘衛星・闘強導夢』が開催されます。
その目玉がソビエトレッドブル軍団でした。
大将格のサルマン・ハシミコフ選手はセミファイナルに出場し、クラッシャー・バンバン・ビガロ選手を146秒で葬ってみせました。
アマチュアっぽさが
ハシミコフ選手はその後も、ビッグバン・ベイダー選手などの大物選手を次々に下して、一気にIWGPヘビー級王座にまで駆け上がります。
ソビエトレッドブル軍団は、プロレス的な動きとしてはまだぎこちなく、観客へのアピールも皆無であったが、そんなアマチュアっぽさが逆に強さを感じさせたのでした。
フェードアウト
同年の大みそかにはモスクワでの凱旋試合で、マニー・フェルナンデスに勝利。翌年にはアメリカWCWにも参戦を果たしましたが、それ以降は尻すぼみとなってしまいます。
ちなみにIWGPの初代ベルトは、ハシミコフ選手がソビエトに持ち帰った際に、航空会社が手違いで紛失しており、日本にあるのはレプリカとなっています。
ハシミコフ選手はその後、1993年にUWFインターナショナルで髙田延彦選手に敗れており、次第にプロレス界からもフェードアウトしてしまいました。