1990年代の大阪遠征②「ゆき」での忘れ難い想い出
身体を壊してからは・・・
今にして思うと、20代に数々無理を重ねて得た体験は今となっては二度とできない貴重なものばかりでした。
あれだけ煩雑に言っていた大阪も、後年転職してからはなかなか足を運ぶことができず、体を壊してからはさらに足が遠のいてしまいました。
体を壊したことに関しては悔いがありましたが、得たものは非常に大きかったですね。
「ゆき」での貴重な体験
中でもミスターヒトさんのお店、「ゆき」では貴重な体験をたくさんさせていただきました。
その中でも未だに忘れがたい体験を今回はお話したいと思います。
その日は全日本プロレスの大阪大会がありました。
四天王プロレスを堪能した後
例によって朝一の新幹線で大阪入りした私は夕方まで手塚治虫記念館に入り浸りマンガを浴びるほど読んだ後、梅田に戻り難波から府立体育館にいき、観戦してました。
当時から第二競技場も並行して使ってましたが、この日は第一競技場でした。
当時プロレス界を席巻していた四天王プロレスを十分堪能した我々は、その日の試合を振り返りながら体育館表で盛り上がっていました。
ミスターヒトさんが
すると何処かでみたようないかつい身体の男性が会場に入っていくのがみえました。
それは紛れもなくミスターヒトさんでした。
気にはなりましたが、お腹もすいていたし、我々は先にゆきへ向かい、腹ごなしすることになりました。
数名の選手を
確か店内には奥さんがいらしていたと記憶してます。
ちなみに店内には我々以外のお客さんはいませんでした。
我々が食事をしている最中にヒトさんが数名の選手を連れてこられました。
あまりのことに呆然
それはラッシャー木村選手、カンナムエキスプレス、そしてジョニー・スミス選手でした。
あまりのことに呆然とする我々。一気にテンションが上がったのはいうまでもありません。
生涯忘れられない出来事
しかし、このあとに生涯忘れられない出来事がおこったのです。
ヒトさん夫妻はカナダのカルガリーでの生活が長く、英語は堪能でした。
そして海外経験豊富な木村さんもまた英語が話せました。カンナムやジョニーは…いうまでもないですね。
オールイングリッシュ
そう、ヒトさん夫妻と選手たちはオールイングリッシュで会話をはじめてしまったのです。
くどいようですが、店内にはヒトさん夫妻と選手以外は我々しかいませんでした。
しかもヒトさんたちの会話がなんだかわからないけどやたら弾んでいるのです。
あっちは放っておいても
自分が英語をまともに勉強してこなかったことをこの時ほど後悔したことはないですね。
そうそうこの時分にはすでに私たちはゆきではほぼ常連の扱いを受けていたので、「あっちは放っておいても大丈夫だろ」とヒトさんたちには思われていたふしがあります。
わからないなりに
しかしそれでもわからないなりに様子をみていると、木村さんはおだやかな笑みを浮かべてらして、寡黙だけれども実に雰囲気の素敵な紳士でした。
カンナムはやっぱり陽気な感じがしたし、ジョニーはリング上と同じくどちらかというと控えめな印象がありました。
これほどのアウェイ感は
しかし観察していられたのもほんのつかの間。勝手知ったるはずの「ゆき」でこれほどのアウェイ感を感じることになろうとは思いもしませんでした。
そうこうしているうちに終電の時間が迫ってきました。
せっかくのチャンス
しかしここで帰ってはせっかくのチャンスを生かせません。
まだお食事の途中でしたけど、間があいたところで我々はおそるおそる木村さんたちのテーブルに近づいていき「お食事中のところすいませんが」と持っていた一枚の色紙を差し出しました。
極めて珍しい
ちなみにこれが全盛期の長州力なら間違いなくキレられていたでしょう。
しかし、木村さんは嫌な顔ひとつせず、ほかの選手にもサインを書いてもらうよう取り計らって下さり、カンナム、スミス、ラッシャー木村というカナダつながり(木村さんはカナダ遠征の経験があります)のきわめて珍しい寄せ書き色紙をいただき、握手していただいてその場をあとにしました。
一期一会
結局、木村さんとカンナムのダグ・ファーナス選手とはこれが生前、最初で最後の出会いになりました。
貴重な一期一会は今でもはっきり思い出せるほど強烈に脳裏に刻まれています。
ここは大阪なのか?
しかし店内が英語だらけになったときは、「ここは大阪なのか?カルガリーなのか?」と一瞬疑うくらい異国情緒な空間になってましたからね。
おそらくもう二度とできない貴重な体験だったと思ってます。
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