老害プヲタ・プロレス“ザ・モンスター”ハラダの発想の転換のすすめ#70 昭和と現代の雰囲気・前編
はじめて生で見た試合
今回は昭和のプロレスと現代のプロレスとの会場の雰囲気の違いについて二回ほどお話しします。
前編ははじめて生で見た試合の話を中心にお届けします。
強烈な思い出
生まれてはじめてプロレスを生観戦した時の記憶は今でも忘れられないものです。
あれは18歳の時だから既に約40年近くの時が経過しているのに、未だに焼き付いて離れないのだから、強烈な思い出でもあります。
昔は体育館一択
広島県立体育館(現・広島グリーンアリーナ)という今はなき会場で観戦できたのも良き思い出です。
地方のプロレス会場といえば昔は体育館一択でした。今でこそあらゆる場所で試合が見られることを思うと隔世の感がありますね。
異様な熱気
そして体育館ゆえに当然冷暖房などはありません。しかし会場には常に異様な熱気が立ち込めていました。
中に入ると腕のけがで欠場していた高田伸彦(延彦)選手が黙々とミットにキックを叩き込んでいるのが見えました。
鋭いキックが
すでに客入りが開始されてなお練習を続ける若手がいるというのは、それだけで緊張感が伝わってくるものです。
ましてや鋭いキックがバシバシサンドバックから響いてくるわけです。そりゃ迫力もありました。
欠場しても練習する
そしてケガして欠場してもなお練習するんだという強い意志を高田選手からは感じました。
このあたりにストロングスタイルが末端まで浸透している新日本のすごさを見せられた気がしましたね。
古き良き時代の記憶
この光景と音は古き良き時代の記憶として鮮明に残っています。
極真の大会もこの初期新日本の空気に似た印象を私は受けました。
選手の練習風景は
今はどっちかというと殺伐としたものよりショーアップした空気が好まれているようなので、仕方ないのかもしれませんね。
実際選手の練習風景というのもなかなか見られませんし。
「冬の時代」の予兆
私が初観戦した新日本プロレスというのは、KING OF SPORTSを旗頭に、ストロングスタイルを標榜していた全盛期にありました。
とはいえ、初代タイガーマスクの突然の引退や、新間寿本部長が独立し、ユニバーサルプロレスを旗揚げするなど、後々訪れる「冬の時代」の予兆は確かにあったのです。
古きよき時代の新日本
でもIWGPリーグ戦もあったし、長州×藤波名勝負数え歌は健在でしたから、表立って不穏な空気はなかったのです。
古きよき時代の新日本をギリギリ体感できたというのは、自分にとっても大きな出来事でした。
入場曲は当たり前じゃない
ちなみに今では全選手入場テーマ付きというのが一般的ですけど、40年前はそんなものありませんでしたからね。
テレビ放送が始まるちょっと前くらいの試合から流れるのが一般的で、退場時には曲なんかかかりませんでした。
第一試合に入場テーマ曲はない
全選手に入場テーマ曲がつき、入退場時にも曲が流れるようになったのは1990年4月13日に東京ドームで開催された日米レスリングサミットが最初です。
ですから私が初めて生で見たプロレスの試合(第一試合)には当然入場テーマがなかったのです。
非常にテクニカルな攻防
試合開始前にまだざわつきが残る体育館の中を二名の選手が走って入ってきました。
ひとりの選手は丸坊主でプロフィールをみたら、私と同じ18歳(当時)ということで妙に親近感がわいたのを覚えています。
そして2人の試合はストロングスタイルを標ぼうする新日本プロレスらしく、非常にテクニカルな攻防の連続で私は思わず見入ってしまいました。
若手の試合とは
多分「若手の試合とはこうあるべき」というのはこの試合が頭に残って私のプロレス観の軸になったといっても過言ではないと思います。
そのくらい二人の攻防はプロフェッショナルでした。
非常に印象深い技
この試合、山田恵一対新倉史祐の試合は確か8分少々で新倉が得意としていたジャーマンで決着がついています。
ですから初めて見た試合の決まり手がジャーマンスープレックスというのが、これまた私にとっては非常に印象深い技だったというのも、私のプロレス観を形成するうえで重要だったなと思いますね。