老害プヲタ・プロレス“ザ・モンスター”ハラダの発想の転換のすすめ(52)世間で使われている「プロレス」
プロレスというモヤモヤ
今回は世間で使われているプロレスという単語に対する、私のもやもやをお話しようと思います。
私はテレビを見ないので、ラジオが情報源になりますが、時折、想定内のやりとりをする意味で、「プロレス」といった発言を聞く事があります。
ラジオという特殊な性質上、番組を介して、憧れのパーソナリティーと絡むことを「プロレス」、もしくは「ラジオプロレス」などともいっています。
この場合だと、おそらく、プロレスをおとしめている意図はないようです。
伝えることがキモ
ただ、悪気なく言っている「オチが決まっていること」=「プロレス」と捉えている方も一定数いるようですね。
しかも、こういう発言をしてる割に、プロレスにあまり詳しいわけではないケースが多いように、私は感じます。
私が好きなプロレスほど「伝える」ことがキモになっているジャンルはないと思っています。
毎日痛い目に遭い続けながらリングにあがるプロレスラーには、ひしひしと「伝えたい思い」を感じますし、みているファンもまたしばしば「一般の方」からその魅力について説明を求められることがあります。
胡散臭さを貫く
他のジャンルと比較すると有名人や社会的に高い立場の人ほど、わりと簡単にまた公の場でプロレスを馬鹿にする傾向があるように思います。
プロレスが嫌いだとか馬鹿馬鹿しいとか発言するなら、それなりに意識し、身構えるものだと思いますが、プロレスに対してはその身構えが無いようなんですね。
これはプロレスが、今日までその最大の魅力の胡散臭さを貫いている成果でしょう。
「プロレスを説明」するのは難しい
プロレスに熱狂するファン達の存在も含めて、知識人とはいえプロレスを理解したり、言葉にするのは簡単ではないと言う証明でもあります。
それだけ、「プロレスを説明」するということは難しいわけです。
とはいえ、プロレスの魅力をなんとかして「伝えたい」という気持ちは一方でぬぐい切れないのです。
ラジオプロレスでもそうなんですが、プロレスが好きな私からすると、この発言は、言葉の奥に意図があるにせよ、なんにせよ、あまり心地よいものではないんですよ。
自分がスッキリしたい
私がプロレスというものを「敢えて」説明しようと、ブログやYouTubeで発信しているのは、「プロレス」や「プロレスでしょ」発言で、モヤモヤする自分の気持ちをスッキリさせたいからです。
ただ、考え方を変えれば、プロレスを見てない、興味がないあなたは、そもそも「プロレス」という四文字自体を発言しないと思われるわけです。
もしかしたら、プロレスという言葉を間違って使っている(と、敢えて書きますが)だけかもしれません。
「プロレス」発言をする人に、プロレスの魅力が明確に伝えられたら、無関心層より、プロレスファンになる確率は高いと思われます。
これはプロレスが広まるチャンスでもあります。
過去と他人は変えられない
カウンセリングの世界では、「過去と他人は変えられない」と教わります。
要するに、プロレスを理解してほしいというのは、他人を変えようという行為であり、私のエゴでもあるわけです。
「とにかく一度試合をみて、感じたものが答え」というのが、おそらく私が知る限り、一番短いプロレスの説明になると思うんですが、これも完璧な答えではありません。
喜びであり、苦しみ
「これを誰かに伝えたい」「誰かと共有したい」欲求が生まれるのは、プロレスファンである喜びでもあり、苦しみでもあります。
これがプロレス観戦記や映画鑑賞記を書く原動力になるのです。
衝動を生み出すのはリングの上の闘いですが、それを受け止めて自分のものにし、更に伝えていくことは、見る側にのみ許された贅沢なのです。