今回は「私は誰の人生を生きているのか?」という話をしようと思います。その前にまず自分の役割について考えてみようと思います。
役割というのはある意味記号でもあります。記号にしておくと、他人からみてもわかりやすいし、自分のことを説明する手間も省けます。役割や役職があると型にはめられた窮屈さはあるけど、実は楽なんですね。
昔の私はワーカーホーリックでした。マックス時は、朝5時から夜11時まで働き、家では寝るためだけに帰る、そんな生活をしていました。誰かのために何かするわけでもなく、ただ自分が社会人として存在するためだけに仕事をしていたのです。
人間には生きていく中でなんらかの役割を求められます。会社なら社員、あるいは役職、家庭ならお父さん、お母さんなど。プロレスならベビーフェイス、ヒール、マネージャー、レフェリーなどなど。
かくいう私も「働かないカウンセラー」という肩書きがあります。個人的には働きすぎて燃え尽きた感もあって「もう働きたくない」から「働かない」と言っているだけなんですが、これも記号の一種ですね。
役割には役割に応じた仕事がふられる場合があります。しかし、その全てがやりたいかどうかというとそうではありません。自分がやりたいことと、他人が求めることに乖離がある場合は、妥協しても、どちらかに寄せてもモヤモヤします。
一番いいのは第三者のNEEDSと自分のWANTSが一致することですが、そんな理想的なマッチングはそうそうあるものではありません。大概は何処かで妥協を迫られます。
一例をご紹介しましょう。とあるご縁で私はボクシングの興行についてアドバイザーみたいなことを頼まれました。これが第三者のNEEDSです。しかし、私はプロレスファンなので、ボクシングに関わることは、自分のWANTSではありません。確かにボクシングもプロレスもリングで闘うものですが、全く異なるものです。
ですから妥協点を探すことになりました。もちろんボクシングサイドもプロレスファンに妥協した部分はあったでしょう。
しかし、同じプロスポーツの興行として考えるならば、やはり自分の応援するジャンルが一番面白くあってほしいのですが、結果的にはじめてみたボクシングはめちゃくちゃ面白かったという結果になりました。
私は自分が、プロスポーツとしては、ライバルにあたるボクシングに塩をおくる形になってしまったため、悔しさと共にモヤモヤが残りました。そしてそのモヤモヤは、今もなお自分の心の中に巣食っています。
ところがプロレスに関しても、ボクシングに関しても私はいち観客であり、決してプレイヤーではないわけで、自分のモヤモヤを自分で晴らせない悔しさがあるわけです。
観客という立場のまま、自分が主役になることは非常に難しいことです。ある意味二律相反した矛盾すらはらんでいます。これが今のところ私が考えうるモヤモヤの正体ではないかと思います。
私の思うがまま自分が主役になり、自分の思い通りにしたい…しかし、それは他人と自分が違う人間である限り不可能なのです。何らかの役割が求められる中で妥協しつつ、自分の満足度をあげていくというのは難易度の高い話です。
結婚や恋愛に憧れつつも、独り身の自由を謳歌している今の私自身、矛盾した存在です。しかし、モヤモヤを放置したままなら、一生モヤモヤし続けていくでしょう。
それは自分としては嫌なので、解決策を見出していくためにも、この問題とは向き合う必要を、私は今すごく感じています。
たぶんそれは役割が明確でない今の自分の感覚と、今まで自分が主役ではない人生を生きてきた自分自身の根っこにある感覚に類似した何かがあるからではないかな、と私は思っているわけなのです。