プロレス的発想の転換のすすめ(86) 常識とプロレス
自分の常識は他人の非常識
今回は常識とプロレスの話をしたいと思います。
自分の常識は他人の非常識と言われます。
自分と他人ではズレている
そもそも常識というものが自分と他人ではズレている部分があるので、合わないはずですよね。
「自分の常識=他人の常識」という幻想は「ない」と思って間違いないと思います。
ですから、自分にとっての常識が必ずしも人にとっては常識ではないということはよくある事と思います。
当たり前だと思っていても
プロレスファンも長くやっていると、同輩より下の世代と交流する事も多くなります。
その中では、自分は当たり前だと思ってることが、必ずしもそうではなかったりするという事も多々あるわけです。
誰ですか?
一例をお話ししてみましょう。
昔、とある会場で当時30代半ばぐらいの男性ファンとお話をする機会がありました。
会場にたまたまあった星形デザインのグッズがあり、それをみた私は「マスクド・スーパースターを思い出しますね」と話しかけたら「誰ですか?」と言われ、話はそこで終わってしまいました。
知らなくて当然
この時に私は、マスクド・スーパースターというか選手を知っているという前提でお話をしてしまったんです。
ただ、よくよく考えてみたら、その方はまだ幼稚園生だった可能性を考えると、知らなくても当然だったわけです。
知っていて当たり前ではない
こうしたことを考え合わせていくと自分の常識は必ずしも相手にとっての常識ではないということが分かると思います。
自分の常識は相手が知っていて当たり前だという決めつけは非常に危険だと思います。
知らない前提で
ですのでこうした体験から、私は相手が知らないという前提で説明をするように心がけるようにしていきました。
もしくは相手が知らないであろうという言葉は、相手が知らないであろうという出来事に関してはなるべく避けるようにして、相手が知っているであろうという話に切り替えるようにしていきました。
対話による調整
もし、相手が興味を持ってくださるのであれば、古いお話もすることはやぶさかではありませんが、その時も相手が知らないという前提でお話をするように心がけています。
このように、常識がずれていたときは、お互いの対話による調整を試みたらいいと私は思っています。
忖度や我慢はいらない
相手と話が通じなければ無理に合わせなくても良いのです。忖度とか、我慢とかはいりません。
全ての人と理解し合える世界はまだ幻想でしかないし、完全に相手に分かってもらえるなんて事はありえません。
自分の決断を尊重
もし改善する必要があるのであれば、それは相手の問題で、こちらからは何もできないのです。
自分で意識を持って先に進む人は、自分の決断を尊重したらいいだけなんですね。
分かり合えないから、プロレスも人生も面白いと私は思っています。