プロレス的発想の転換のすすめ(73) プロレスファンとしての自分の「在り方」
変わらないことは
今回はプロレスファンとしての自分の「在り方」についてお話します。
まさか見始めた時には、自分が50過ぎて独身でプロレスを観続けている未来なんか想像もしていませんでした。
変わらないことはある意味誇れることでもありますが、あまりに変わらなさすぎるのもどうなのかなあ、と思ったりもします。
未だプロレスファン
さて、何年か前に東京在住のプロレスファンの友人から「未だにプロレスファンとしてプロレスに関わり続けているのは、ハラダさんくらいだよね」と言われたことがあります。
大概長年ファンを続けていると選手や関係者とつながりができ、そのまま業界関係者としてプロレスを提供する側に回ることが少なくありません。
色々感慨深い思い
実際、私の周りでもレフェリーやったり選手になったり、リングアナになったりという事例は結構あります。
知らない内に、週プロの選手名鑑にスタッフ・レスラーとして紹介されているのを見ると、いろいろ感慨深い思いを抱くことがあります。
甘美なお誘いもなく
特に都心部にいると、ファンとレスラー、ファンと関係者の垣根がいつの間にかズブズブになることも多いでしょう。
しかし、私の場合山口県の片田舎住まいで、地域密着型団体がはびこるまではプロレス僻地にいたせいか、甘美なお誘いもなく、今日に至っています。
最高の贅沢
でもプロレスファンとして純粋にプロレスに関わることができるのはある意味最高の贅沢ですね。
とはいえ、この数十年でプロレスラーとファンの関係性も激変しました。SNSによる交流なんて、私の学生時代には想像もしていませんでしたからね。
見る側に特化したスタンス
また、選手の小型化もかつてからは、想像もつかないくらいに進みました。
私は元々「やる側」には関心がなくて、「見る側」に特化したスタンスを一貫してとってきました。
ハナから選択肢になかった
従ってプロレスラーになるという選択肢も、プロレスマスコミになるという選択肢もハナから頭にありませんでした。
基本私の憧れる選手は地味だけど仕事ができる人が多い傾向にありますし、自分から目立ちたいとか認めらたいとかいう気持ちはほとんどありません。
見ることにこだわった
不思議なことに人に技をかけた事すらほとんどなかったりもします。
ここまで完全に自分が見ることにこだわったのは正直なぜなんだろうと思うくらい自分でやってみよう、自分が主役になろうとはつゆほども思わなかったのです。
自分のありようがみえてきた
ですからたまに自分がスポットライトを浴びるとすごく場違いな感じがして居心地が悪い思いをすることもたくさんありました。
まあ、でも日陰にいても日向にいても私は私なんで、基本がぶれなければそれでいいと思います。
今更勘違いする要素はないですし、自分のありようがそこそこみえる年齢になりましたから、まわりの評価で自分の価値を左右されることも少なくなったからかもしれないですね。