プロレス的発想の転換のすすめ(104)嫉妬とプロレス
ネガティブな感情
今回は嫉妬とプロレスのお話です。
そもそも嫉妬とは、他人が自分より優れている、恵まれていると思ったときに感じる、「そねみ」や「ねたみ」といったネガティブな感情のことです。
嫉妬は「対馬場」
プロレスラー同士の嫉妬を、そのままリングで表現した元祖は、やはりアントニオ猪木さんになるかと思います。
「対世間」が猪木さんの反骨心を表現したものなら、嫉妬は「対ジャイアント馬場」ではないか、と私は考えています。
静の馬場、動の猪木
嫉妬された馬場さんはいい迷惑だったのでしょうが、泰然としていたことで、静の馬場、動の猪木という対照的なイメージが出来上がりました。
猪木さんは自身が表現してきた「嫉妬」を、弟子の売り出しにも効果的に使いました。
フィクサーとして
藤波辰巳(辰爾)さんに対する長州力さん、その長州さんを襲撃した藤原組長、長州さんの決起に刺激され、虎ハンターとなった小林邦明さん。
いずれも猪木さんがフィクサーとして関わっていたと言われています。
後年では
後年、猪木さんが仕掛けた海賊男やTPGらには、成功例に見られた「嫉妬」はあまり感じられなかったように思います。
この時分の猪木さんは、事業の失敗や選手の大量離脱で四面楚歌の状態にあり、本来嫉妬の対象だった馬場さんも、第一線を退いていました。
劣等感とコンプレックス
したがって、いかに猪木さんといえども、思うような成功例を残せなかったのかもしれません。
嫉妬しやすい人の特徴の一つとして、自分に自信がなかったり、容姿や経済力、仕事の能力など、自分に劣等感やコンプレックスがあったりする場合があります。
手塚先生は
私も、自分より優れている人が現れると、「あの人はいいな」「あの人は恵まれているな」と嫉妬に心が奪われてしまいがちです。
漫画の神様・手塚治虫先生は、自分より遥かに若いキャリアの同業者にも嫉妬をしていた事は有名な話です。
神様の嫉妬
手塚先生の作品中には、当時先生が嫉妬の対象にしていた作家さんの似顔絵やキャラクターが登場するため、神様に嫉妬された先生方は、むしろ感激していたそうです。
嫉妬する側は創作意欲に結び付け、嫉妬される側はそれを光栄と思う例は、私が知る限りこの一例だけです。
きちんと認める
もともと嫉妬はネガティブな感情なので、嫉妬している自分を認めたくないのが普通です。
でも、「私は嫉妬しているんだ」と、まずは嫉妬していることに気付いて、きちんと認めることが大切です。
下手に出ず、淡々と
自分が今度は嫉妬の対象になった場合、相手は一目置いているから嫉妬しているわけです。
下手に「私なんて」と謙遜したら、「それより惨めな私はどうなるんだ」と逆効果になってしまいます。
下手に出ず、淡々とした雰囲気で対処するのがベストだと思われます。
謙遜していたら
まさに猪木さんに対する馬場さんの接し方が、参考になるでしょう。
NWAラインから大物外国人も招聘し、日テレのバックアップがあった馬場さんの状況で、NET(後年のテレビ朝日)がついていたとはいえ、外国人レスラーの招聘ルートがない猪木さんに謙遜していたら、それは嫌味にしかならなかったでしょう。
レスラーとして
全日本と新日本という「商売敵」でありながら、実際に2人で会うと普通に会話していらしたそうですからね。
猪木さんが嫉妬の炎を燃やしていたのは、「プロレスラーとして」だったのかもしれません。
根本的な感情
嫉妬は、人間の根本的な感情で、誰しも持っているものです。
だからこそ、長州選手の「かませ犬発言」などは大いに支持されたのです。
みる人が幸せそう
私も、自分より優れた人が現れたり、自分の立場が脅かされそうになったりすると嫉妬がすぐに心の中に現れてきます。
実際、介護とがんの二刀流を謳ってからは、見る人みる人が幸せそうで、たびたび胸をかきむしってきたものです。
あるものだから
ただ、嫉妬している気持ちが出てきたら、あるものだからしょうがないと受け入れて、解放していくことが大切です。
「反旗を翻す」のはリング上だから許されるので、日常生活でいちいち噛みついていたら、人間関係が破綻してしまいますからね。
代行して放出
本来、プロレスは日常ではどうしようもない感情を、レスラーが代行して放出し、お客さんはそれにカタルシスを感じて、すっきりするエンターテインメントという性質をもっています。
どうしようもない嫉妬にとらわれて苦しい時こそ、プロレスに頼りましょう!