プロレス的発想の転換のすすめ(91)「やる側」と「見る側」の距離
やる側への誘い
個人的に長いことプロレスに関わっていると、いわゆるプロレスを「やる側」に誘われたことも一度や二度ではありません。
今回は「やる側」と「見る側」の距離のお話です。
この場合の「やる側」とは、何もプロレスラーを指すわけではありません。
プロレスはチームプレイ
ひとくちにプロレスといっても、裏方、リングアナ、運営、マスコミなど様々な人間が携わって一つ一つの興行が成立しています。
年齢的にも体力的にも選手が無理ならほかの関わり方もあるわけです。
プロレスが個人競技ではなくチームプレイだといわれるゆえんのひとつですね。
あくまでいちファン
しかし、ことプロレスに関しては私のわがままで「あくまでいちファン」としての関わり方しかしていません。
その一番の理由はやはり「お金」になります。
基本プロレスにおきる揉め事の大半はお金にまつわることです。あとは嫉妬ですかね。
タダで運営はできない
お金が発生する分、プロレスにはプロ競技として他にはない厳しさも存在しますが、同時にめんどくささも発生するわけで、これは選手でなくても同様です。
いわゆるアマチュアプロレスにはお客さんからお金をとらないスタイルの団体もありますが、無料でやるからと言って、タダで運営できるわけではありません。
揉め事の火種
場所を借りる、練習場所を借りるなどなど、出て行くお金がゼロではないわけです。
一人でやる分には自己負担ですみますが、プロレスは基本1人ではできないので、幾人かで集まってお金の負担について話し合っていくわけですが、この時点で既に揉め事の火種がばらまかれているのですね。
人間関係のややこしさ
お金の件も、嫉妬の件も込みですが、私がプロレス業界に対して積極的に関わりたくない大きな理由のひとつに、プロレス界特有の人間関係のややこしさも挙げられます。
特にプロレスには外部には漏らしてはならない約束事が多く存在します。
村社会的約束事
個人的には、例えば技術的な面(相手に怪我をさせない工夫など)に関しては解禁してもよいような気もするのですが、これはあくまで私の主観であり、団体、グループ、組織によって考え方が異なるため、一概に非難することはできません。
しかしながら、隠語に代表される「村社会的約束事」が多いのは、組織的にあまり感心できません。
見ているだけではつまらない?
プロレスの技術が口伝ではなく、きちんとした形で後世に伝えられてほしい、という願いがある私としては、あまり感心しないんですね。
「見ているだけではつまらないから、実際にやってみたい」というのは普通誰しもが思うことで、それが高じて実際プロになった選手もたくさんいるわけです。
「やる」より「見る」を
その流れは極めて当たり前で、私でも理解できるのですが、私は「やる」より「見る」ことをもっと突き詰めたくなったんですね。
ファンとしてはかなり変わり種だし、我ながら偏屈な楽しみ方なとも思うのですが、実際リングに上がって試合することにどうしても憧れを持てなかった以上、仕方ないですね。
キャンバスの中と外
ここらへんを突き詰めていくと、「自分にはリングに上がって声援をあびる資格などない」とかいう心理的な問題にぶちあたっていくのですけど、割と自分自身を認めて受け入れられている現在でも、リング上にあがる自分の姿は想像もできませんからね。
見る側とやる側の距離感については三本ロープで区切られた四方のキャンバスの中と外という関係でちょうどいいのかもしれません。
お客さんが見たいプロレス
各組織ごとに異なる暗黙の了解をいちいち説明したり、遵守したりするのも何かやりづらいので、深い関係性はなくても自由に渡り歩ける「いちファン」という立ち位置が非常に心地よいわけです。
もうひとつ、やる側になると自分が見たいプロレスよりも、お客さんが見たいプロレスを優先させねばなりません。
お客さんがいる前提なら
これはプロレスというものがお客さんのいる前提で成り立っている以上、避けては通れません。
時として自分のやりたくないことが、お客さんの見たいものなら、後者を優先させる、それがプロレスです。
二の足を踏んでしまう
自分の中で見たいプロレスとお客さんが求めているプロレスとの乖離は年々酷くなってきている気がしてなりません。
その思いが強くなればなるほど、私は「やる側」に足を踏み入れることに対しては、二の足を踏んでしまうのです。