プロレス想い出回想録・ミスターヒトさんとの想い出①
別れは出会いのはじまり
長いことプロレスに関わっていて思うのは、別れは出会いのはじまりだということです。出会いがあるから、辛い別れもいつかは乗り越えられる。私はそう信じています。だから、たっぷり悲しんだあとにゆっくり思い出話をしようと思います。
別れは無理して忘れる必要もありません。ただ想い出に変えていけたらならそれでいいのです。
しかし、それでもテンカウントゴングだけは何回聞いても慣れないですけどね。
何でもいいから・・・
さて、1990年代、私はカーディーラーの営業マンをしておりました。営業マンですから日曜日、祭日は休めません。休みは月曜日でした。今みたいにネットで検索できない時代、情報源は週刊誌でした。そこにある興行日程をみると、意外なくらい大阪の開催が多かったのです。
そこで私の大阪詣がはじまりました。週刊プロレス投稿常連会で本当に投稿常連になった私は、関西系の会員と親しかったこともあり、行けば必ず歓迎されました。
それがとても気持ちよかったのです。ちょうど仕事にもプライベートにも行き詰まりを感じており、何でもいいから下関を離れたかったのです。
その回数も半年に一回が月に一回になり、しまいには毎週になったこともありました。
毎週の習慣
ちなみに
(1)朝一の新幹線で新下関から新大阪へ。
(2)梅田まで出て宝塚へ
(3)歌劇団をガン無視して手塚治虫記念館へ
(4)手塚治虫記念館に夕方まで入り浸り
(5)宝塚から梅田に戻り環状線で難波へ
(6)難波の大阪府立体育館(現、エディオンアリーナ)でプロレス観戦
(7)現地会員と合流→ミスターヒトさんのお店にいき、入りびたる
(8)午前零時前に梅田駅に戻り最終の寝台で山口県へUターン。
(9)朝一で帰宅。そのまま着替えて出社。
こんなことを毎週してました。
カンフル剤を打っていた
営業というのは長時間労働ですし、この頃は基本週一しか休みがなかったため、これでは身体を休めるヒマがなかったのです。しかし、当時の私には好きなことをしている高揚感しかなく、自分の身体を粗末にしている感覚は皆無でした。そりゃ身体も壊しますよね。
日常のつまらなさを忘れようとカンフル剤を打ちながら生きているようなもので、自分と向き合おうともせず、ひたすら問題から逃げてばかりいました。
大好きなプロレスを逃避の道具にしていたという点では、今よりプロレスが好きではなかったのかもしれません。
忠告すら誉め言葉
ミスターヒトさんからも「あんた、そんなバカなことやってちゃダメだよ」と何度も釘を刺されていましたが、あの頃の私には忠告すら褒め言葉でした。
今ならヒトさんに言われた言葉の意味も痛いほどよくわかります。それを理解した時にはもうヒトさんはこの世にはおられませんでした。
本当は直接あって「ご心配おかけして申し訳ありませんでした」と謝りたかったし、もう一回馬場さん、猪木さんの悪口?も聞きたかったし、もう一度、愛弟子ヒットマン・ブレッド・ハートの自慢話も聞きたかったし…
今できることを・・・
大阪には楽しかった想い出と共にたくさん悔いもあります。
今更決してやり直すことはできませんが、ヒトさんから言われた言葉を忘れることなく胸に刻んで今の自分を大切に労わろうと思います。
それしか今の私にはできません。今できることを精一杯やって今度は無理のない形で、いつの日か再び大阪の地でプロレス観戦をしてみたいですね。
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