プロレス謎試合~自分はこうみた!~ジャイアント馬場対上田馬之助(1983.3.3)
序盤では必ずグラウンドで
今回は、1983年3月3日、後楽園ホールで行われたジャイアント馬場対上田馬之助戦です。
初代・上田馬之助さんのシングルマッチで特徴的なのは、序盤では必ずグラウンドで始まることです。
見応えある攻防
この試合でも、上田さんのレッグシザースを馬場さんがアキレス腱固めで返す、見応えある攻防が繰り広げられます。
身体を捻ってアキレスから脱出する上田さんのグラウンドワークが渋すぎる点で、実はここが大のお気に入りの展開なのです。
異色な制裁試合
とはいえ、この試合はかなり異色な「制裁試合」だったとも言われています。
馬場さんの試合でロープワークがない事はほぼあり得ませんが、この試合でも中盤以降に1度だけしかロープワークがありませんでした。
執拗に集中攻撃
試合後半は、馬場さんが執拗に集中攻撃を行なっていた上田さんへの左腕を、再度取りグラウンドに持ち込んでいきます。
1発目の腕殺しは、相手を腹ばい状態にさせ、両手で相手の腕を取って体重を乗せてジャンプして叩きつけています。
ダメージは相当なもの
馬場さんにしては、かなりエグいものです。少し力を抜いていたとしても、上田さんのダメージは相当なものと思われます。
そもそもこの試合の発端は、1982年末にハーリー・レイス選手に奪取されたPWFヘビー級王座を取り返すべく、馬場さんがレイスさんの地元、アメリカ・カンサスに乗り込んでリターンマッチに望む為、シリーズを全休する予定でした。
不服を唱えた
しかしこの事に不服を唱えたのが、金狼・上田馬之助さんでした。
馬場さんの欠場に腹を立てた上田さんは、全日本プロレスのフロントに対し、「馬場が出ないのなら俺もシリーズ出場をキャンセルする。それが嫌なら馬場との試合を組め!」と揺さぶりをかけました。
腕を亜脱臼させた
それを聞いた馬場さんは「自分がポスターにも載って、チケットも販売されいるのに、ドタキャンをちらつかせるなんて横暴にも程がある。ここで少し痛い目に合わせないとつけあがるばかりだ」と考えたようで、予定をキャンセルして急遽帰国します。
最終戦で要望通り上田さんとのシングルマッチを組み、通常の内容とは全く異なるシビアな試合内容で、結果的に上田さんの腕を亜脱臼させました。
結果は馬場さんのレフェリーストップ勝ち。
何とも言えない哀愁
裁定に不服を唱えるも、リングを降りて去っていく上田さんの背中には、何とも言えない哀愁を感じます。
最後まで自分自身で「参った」と言わなかった上田さんの根性に対して、馬場さんは「流石に力道山道場で鍛えられた男。その根性はちょっと見直した」と語ったとされています。
異色な内容の試合
馬場対上田戦は、それまでの全日本プロレスの体質を考えればあまりに異色な内容の試合でした。
この試合は上田さんのパートナーのタイガー・ジェット・シン選手がサーベルを持って2回乱入していますが、いずれもセコンド総がかりで完璧にブロックし乱入を許しませんでした。
決着はうやむや
通常、ヒールサイドはセコンドのブロックをかいくぐって試合に介入する事はよくあって、そのたびに決着はうやむやになっていたのが、昭和のプロレスでした。
しかし、この試合では上田さんが淡々と技を受け、後半では意地の防御を見せていきます。
終始余裕の表情
また、制裁マッチというわりに、馬場さんも怒りを露わにするわけでもなく、終始余裕の表情を浮かべています。
この試合の裏では「上田さんが雑誌で馬場元子さんの悪口を喋った」という噂があります。
相当煙たく思われて
元子さんは裏のスポンサーであり、経営者として会社をコントロールし、現場の選手の待遇や今後の展開にもあれこれと口を出し、全日本内部からは相当煙たく思われている存在でした。
何かあったとしても
そんな元子さんに対して、悪党という立場の上田さんが一言もの申したとしても不思議ではありません。
だいたい当時の元子さんと因縁がない選手・関係者を探す方が難しいくらいですから、上田さんとも裏で何かあったとしてもおかしくないでしょう。
上田馬之助人気
この当時はまだまだ世間が普通にプロレスを見ていました。
上田さんの徹底した悪党ぶりに対して「上田馬之助人気」が集まり、ちょっとしたブームが発生していました。
リップサービス
中でも、1983年にはコント赤信号が歌うレコード「男は馬之助」がリリース出版され、それを歌う赤信号を襲う形で上田さんは「オレたちひょうきん族」に乱入出演しています。
そういう流れから、インタビューで上田さんが「リップサービス」した可能性は十分あるのです。
影の権力者
当時の元子さんは長年の内縁関係を経て、既に馬場さんと婚姻済みである事を公表したばかりで、その名前がマスコミに出る事は専門誌でさえもありませんでした。
それがいきなり一般誌に影の権力者として名前入りで書かれてしまったんですから、相当にカリカリきたのではないかと思います。
馬場夫妻は激怒
このような状況だったのですから、この試合が「制裁試合」だったと推測されても仕方ありません。
早速、全日フロントがハワイで静養中の馬場夫妻にインタビュー内容を報告し、馬場夫妻は激怒したと言われています。
試合で制裁した
そして夫妻は予定を繰り上げて帰国し、上田さんの希望通りシングルマッチを組み、試合で制裁したという事ですね。
しかしこの上田対馬場戦は、映像を見る限り、そこまで「やるかやられるか」の真剣勝負には見えません。
セメントが得意
上田さんは途中からほぼ無抵抗になり、馬場さんの腕折りも最初の一発はかなりエグかったですが、回を重ねるにつれ普通のアームブリーカーに変化してきています。
もともと上田さんは若手時代からセメントが得意なレスラーとしてならしており、単純に関節技の腕なら、馬場・猪木より上だという声が多数ありました。
悪役転向を図った
しかし容貌の問題と試合ぶりがあまりに地味な為、日本プロレス時代はスター街道は歩けませんでした。
そして苦肉の策として、髪を金髪に染めるという事までして悪役転向を図ったのです。
気に食わなかった
しかし、馬場さんや猪木さんとすれば「本気でやれば上田馬之助の方が強い」という幻想を持たれる事は気に食わなかったと思われます。
馬場さんにしてみれば、その事を払拭するいいチャンスだったとっも考えられます。
価値を貶めないまでも
実際馬場さんは、猪木戦で引き分けて、最強幻想が爆上がりしたビル・ロビンソン選手とシングルマッチをやって、あっさり自分が勝ってしまったくらいです。
この試合でも、上田さんの価値を貶めないまでも、「馬場より実力は上」という見方は払拭したかったのではないでしょうか?
不穏試合風
「真剣勝負で戦っても馬場の方が上田より強い」というイメージをファンに植え付ける事は、上田さんの契約を単純に解除するより利すると考えたとしてもおかしくありません。
本来なら、プロモーター夫人の悪口を公言するなんて言語道断ですが、馬場さんはこれを上手く「不穏試合風」のプロレスに昇華させたように思います。
「続き」はなかったはず
ちなみにこの試合後、上田さんは全日本のタッグの看板タイトルである、インタータッグ王座に挑戦して見事奪取し、全日再登場以降初のタイトル戴冠を果たしています。
普通、制裁して終わりならこのような「続き」はなかったはずで、馬場さんが上手く上田さんを懐柔し、元子さんの顔をたてたのがこの「馬場対上田」戦だったように思います。
干される事はなかった
上田さんは結局、1984年10月のジャイアントシリーズ参戦を最後に、自ら全日マットを去りました。
1985年頭から長州力さん率いるジャパンプロレスの参戦が確定した為、もう自分の出る幕はないと判断されたのだと思われます。
結局自ら退団するまで、上田さんが全日本を干される事はなかったのです。
「会話」しているかのような
ただし、不穏試合「風」とはいえ、前半のグラウンドの攻防からは、力道山門下の薫陶を受けたもの同士が「会話」しているかのような空気感を感じます。
もし、猪木さんだったらもっと凄惨な形で抗争にピリオドを打ったでしょうが、これは馬場さんなりの「収め方」としては非常にクオリオティの高い「プロレスの試合」だと私は思っています。
まさに「シューティングを超えたものがプロレス」を有言実行した試合なのではないでしょうか?