プロレス的発想の転換のすすめ(42) 自分の人生を闘う
役割という名の記号
今回は「私は誰の人生を生きているのか?」という話をしようと思います。
その前にまず、自分の役割について考えてみようと思います。
役割というのは、ある意味「記号」でもあります。
記号にしておくと他人からも分かりやすいし、自分のことを説明する手間も省けます。
役割や役職があると、型にはめられた窮屈さはありますが、実は楽でもあるんですね。
過去の仕事中毒時代
昔の私はワーカホリックでした。
ピーク時は朝5時から夜11時まで働き、家には寝るためだけに帰る、そんな生活をしていました。
誰かのために何かをするわけでもなく、ただ自分が社会人として存在するためだけに仕事をしていたのです。
人に求められる役割
人間は生きていく中で、何らかの役割を求められます。
会社なら社員や役職、家庭なら父親や母親など。
プロレスならベビーフェイス(善玉)、ヒール(悪役)、マネージャー、レフェリーといった役割があるのと同じです。
理想と現実の乖離
役割には、それに応じた仕事が振られる場合があります。
しかし、そのすべてがやりたいことかと言えば、そうではありません。自分がやりたいこと(WANTS)と、他人が求めること(NEEDS)に乖離がある場合は、妥協してもどちらかに寄せてもモヤモヤします。
一番良いのは両者が一致することですが、そんな理想的なマッチングはそうそうありません。大抵はどこかで妥協を迫られます。
ボクシングへの協力
一例をご紹介しましょう。以前とあるご縁で、私はボクシングの大会についてアドバイザーのようなことを頼まれました。これが第三者のNEEDSです。
しかし、私はプロレスファンなので、ボクシングに関わることは自分のWANTSではありません。確かにボクシングもプロレスもリングで闘うものですが、全く異なるものです。
ですから妥協点を探すことになりました。もちろんボクシングサイドも、プロレスファンである私に妥協した部分はあったでしょう。
敗北感と心のモヤリ
しかし、同じプロスポーツの闘いとして考えるならば、やはり自分の応援するジャンルが一番面白くあってほしいものです。
結果として、初めて見たボクシングは「めちゃくちゃ面白かった」という結末になりました。
私は、プロスポーツとしてはライバルにあたるボクシングに塩を送る形になってしまったため、悔しさと共にモヤモヤが残りました。そのモヤモヤは、今もなお自分の心の中に巣食っています。
観客席からの脱却
ところが、プロレスに関してもボクシングに関しても、私はあくまでいち観客であり、決してプレイヤーではありません。
自分のモヤモヤを自分で晴らせない悔しさがあるわけです。 観客という立場のまま、自分が主役になることは非常に難しいことです。
ある意味、二律背反した矛盾すらはらんでいます。これが、今のところ私が考えうる「モヤモヤの正体」ではないかと思います。
主役として生きる道
私の思うがままに自分が主役になり、自分の思い通りにしたい……。
しかし、それは他人と自分が違う人間である限り不可能なのです。何らかの役割が求められる中で妥協しつつ、自分の満足度を上げていくというのは難易度の高い話です。
結婚や恋愛に憧れつつも、独り身の自由を謳歌している今の私自身、矛盾した存在です。しかし、モヤモヤを放置したままなら、一生モヤモヤし続けていくでしょう。
自分の物語を綴る
それは自分としては嫌なので、解決策を見出していくためにも、この問題とは向き合う必要を私は今、強く感じています。
たぶんそれは、役割が明確でない今の自分の感覚と、今まで自分が主役ではない人生を生きてきた自分自身の根っこにある感覚に、類似した何かがあるからではないかと思っているのです。
私は誰の人生を生きているのか?
プロレスの世界では、どれほど実力のある選手であっても、会社から与えられた役割に飲み込まれ、自分を見失うことがあります。
しかし、ファンの心を震わせる名レスラーたちは、その役割を全うしながらも、一瞬の隙間に「己の真実」を刻み込みます。
私は今、観客席からリングを見上げるだけの存在で終わるつもりはありません。
他人が決めた通りに動くのではなく、たとえ不器用でも自分の足でキャンバスを踏みしめ、自分の言葉でマイクを持ちたいのです。
「私は誰の人生を生きているのか?」――その答えは、誰かに与えられる役割の中ではなく、自分という一人のレスラーが、人生という過酷な闘いの中で見出すものだと信じています。
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