- プロレス想い出回想録・プロレスと街の記憶をたどる ① 体育館から海峡メッセ へ
- ■ 序章 ― 旧・下関市体育館を語り始める理由
- ■ 下関の象徴だったあの建物の正体
- ■ 三角の体育館という“異形の魅力”
- ■ 海峡メッセとの比較で見える“ちょうどよさ”
- ■ 老朽化の現実と、避けられなかった世代交代
- ■ 重要文化財候補だった建築が消えた日
- ■ 新時代の“J:COMアリーナ下関”登場
- ■ 福岡国際センターと比べて見える下関の立ち位置
- ■ 新アリーナこけら落とし ― SHIMONOSEKI IMPACT
- ■ 破格の市民料金と「値段なり」だったカード編成
- ■ 棚橋弘至“最後の下関”だけが輝いた夜
- ■ 永遠の課題 ― 駐車場という“魔の出口”
- ■ 海峡メッセの強さは“立地の力”
- ■ 冬も夏も地獄…旧体育館の観戦環境
- ■ 新体育館でも残った“改善されない周辺事情”
- ■ 昭和・平成・令和をまたぐ“出口一つ”の歴史
- ■ 建て替わっても変わらなかったもの
- ■ 終章 ― 多幸感のあとに残った“帰路の疲労”
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プロレス想い出回想録・プロレスと街の記憶をたどる ① 体育館から海峡メッセ へ
■ 序章 ― 旧・下関市体育館を語り始める理由
今回から2024年末に取り壊された旧・下関市体育館の思い出を主として、下関で行われたプロレス大会の思い出を語っていこうと思います。
本当は旧.体育館が取り壊される前に書き残しておきたかったのですが、親の介護や自分自身の体調もあって、既に新・体育館が完成したあとではありますが、このタイミングで書かせてもらう事になりました。
■ 下関の象徴だったあの建物の正体
旧下関市体育館は、山口県下関市に所在していた多目的スポーツ施設で、特にプロレスやバスケットボール、その他のイベントが行われていました。
1963年(昭和38年)9月1日に開設されており、1970年6月16日に行われた日本プロレスの下関大会に少年時代の藤波辰爾(辰巳)さんが大分から、同郷の北沢幹之さんを頼って来場しており、私が知る限りではこれが旧体育館最古のプロレス大会ではないかと思っています。
■ 三角の体育館という“異形の魅力”
三角形の外観が特徴的なデザインは、構造デザイナー 坪井善勝氏による設計によるもので、当時としては最新鋭の体育館となっていたそうです。

3面タイプのスタンドで、館内のスタンドも三角形を感じられる変わった構造になっており、収容人数は公表されていませんが、バレーボール3面分のコートサイズで、目安2000~2300人くらいのキャパシティだと言われています。
■ 海峡メッセとの比較で見える“ちょうどよさ”
下関駅前にあって、旧体育館と入れ替わるように下関のプロレス会場として使われるようになった海峡メッセの展示市市場は約1900人がマックスといわれているため、やや大きめの会場といえますね。

■ 老朽化の現実と、避けられなかった世代交代
旧体育館の座席はアリーナでは珍しいベンチシートタイプで、大型ビジョンやデジタル設備もなく、当然冷暖房は完備されていません。
なにより築50年以上による老朽化が問題となっていて、耐震基準も満たしていないため、すぐ隣に新アリーナの建設が決定しました。
■ 重要文化財候補だった建築が消えた日
とはいえ雑誌の特集で「今すぐ重要文化財にしたいモダニズム建築55」に選ばれるなど、歴史的な重要文化財として存続させることも検討されていたそうですが、2024年に解体されてしまいました。
■ 新時代の“J:COMアリーナ下関”登場
2024年(令和6年)8月5日にオープンした下関市総合体育館 (J:COMアリーナ下関)には、かつての旧体育館を偲んで、特別展示が2Fに常設されています。もっともほんの片隅にぽつんとあるだけなので、さがすのに苦労しましたが・・・
旧体育館があった場所は、陸上競技場も含めた有料の駐車スペースとなっており、不便さは変わっていません。
新体育館である J:COMアリーナ下関 は4,500席 と言われており、海峡メッセの約2倍の動員が見込めます。

■ 福岡国際センターと比べて見える下関の立ち位置
近隣で言うと福岡国際センターが10000人の収容人数であり、ステージの設置もあるのでコンサートで使用の際は6,000~8,000人前後の動員となるようです。
その国際センターでもなかなか満員とはいかないのが現状です。
■ 新アリーナこけら落とし ― SHIMONOSEKI IMPACT
2025年11月18日に開催されたNJPWの「SHIMONOSEKI IMPACT~海響決戦~ 」は、 J:COMアリーナ下関 (下関市総合体育館 )のプロレスこけら落としでもあります。
残念ながら大会内では特に触れられることもなく、スルーされてしまいました。
■ 破格の市民料金と「値段なり」だったカード編成
この大会は、ボートレース下関による協賛大会で、下関市民はアリーナ2000円、二階席1000円で入場でき(市民以外はプラス1000円)、破格の値段ではいれました。
とはいえ、事前に発表されたカードは「お値段なり」の内容になっていたので、正直微妙な感じはしました。
結局、18日の動員数は「2,057人 」と発表がありました。
■ 棚橋弘至“最後の下関”だけが輝いた夜
この大会にはHOUSE OF TORTURE やUNITED EMPIREは一人も来ていなかったこともあって、実質的な見どころは、引退を控えた棚橋のラスト下関と言うポイントしかなかったことも要因としてあったと思われます。
■ 永遠の課題 ― 駐車場という“魔の出口”
更に問題だったのは、旧体育館時代から課題になっていた駐車場でした。
駐車場は、新体育館になってから有料になっていたのですが、出口は相変わらずひとつしか作られておらず、そこにめがけて満車になった車が押し寄せるので大渋滞し、いつまでたっても出られないままでした。
■ 海峡メッセの強さは“立地の力”
海峡メッセで行われる大会が、こうはならないのは、海峡メッセ以外にも有料駐車場が多数あり、またJR駅やバス停からも近いという立地条件の良さがあげられます。
■ 冬も夏も地獄…旧体育館の観戦環境
おまけに旧・体育館は冷暖房もありませんでしたし、どんなに古くなっても土足厳禁の会場でしたから、特に冬場や夏場の観戦は地獄だったのです。
したがって、下関で行われるプロレス大会が、冷暖房完備の海峡メッセに移っていったのも至極当然だったのです。
■ 新体育館でも残った“改善されない周辺事情”
今でも近隣に有料駐車場がないJ:COMアリーナ下関には体育館接続の駐車場しかとめる場所がありません。
また、体育館周辺にある病院や学校は日曜になると休みになる為、私の自宅方面から直通で最寄りバス停の東駅へ行く便がほとんどなかったと言う事情もあります。
■ 昭和・平成・令和をまたぐ“出口一つ”の歴史
かつて旧・体育館の駐車場は無料でしたが、昭和の折には路上駐車が絶えず、90年代に入ってからは、今の新体育館の敷地にあったグラウンドを臨時駐車場にして対応していました。
ですが、結局新体育館になっても出口が一方向にしかない為、結局車が渋滞することには変わりなく、有料化したところで問題が解決したわけではないのです。
■ 建て替わっても変わらなかったもの
結局、利用者に向けた整備が全くできていない状態で建物だけ建てかえたので、昭和の時代から続いている問題はそのまま令和になっても適応されているのが実情なのです。

■ 終章 ― 多幸感のあとに残った“帰路の疲労”
結局11月18日は、駐車場から出るのに一時間以上かかってしまい、大会で得られた多幸感より、帰りの疲労感が勝ってしまったのでした。
まあそうした思い出も含めてプロレスではあるのですけど。
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