プロレス的発想の転換のすすめ(8) 魂を刻むプロレスラーの引き際
衰えと美学の境界線
プロスポーツ選手には引退がつきものです。
今回は「引き際」について考えてみましょう。
ベストパフォーマンスができなくなった時が引き際であるという考え方は、時代が変化しても変わることはありません。しかし、その決断の裏には常に「心」の葛藤が渦巻いています。
年月が醸す真の魅力
一方で、人間には年月を重ねなければ出せない味わいもあります。特に佇まいや雰囲気といった魅力は、体力の衰えとは直接関係がありません。
究極的に言えば、シニア選手やベテラン、あるいはレジェンドと呼ばれる層の選手は、リングに立っているだけで価値があるのです。
背中で語るプロの誇り
その存在感だけで「闘い」として成立し、観客を呼ぶことができます。
ベテランの背中を見ることは後輩の学びになるとも言われます。実際、物言わぬ背中が何より雄弁に「プロレスの心」を語る瞬間があるのです。
それこそが、人間のあり方が最も際立つ点だと言えるでしょう。
理屈を超えた存在感
「やり方」や「テクニック」だけで人を惹きつける背中が作れるなら、苦労はしません。テクニックは理論で体系化できますが、その選手独自の「あり方」を理屈で説明するのは困難極まりないのです。
そこには数値化できない執念や愛情が深く関わっています。
十人十色の生き様
理論として成立させるには普遍性が必要ですが、「あり方」は各人各様です。技術は継承できても、その人の生き様(あり方)をコピーすることはできません。
だからこそ、レジェンドがリングに固執する姿もまた、一つの生き様として映し出されます。
剛竜馬が残した影
レジェンド選手は、単に引き際が悪いだけなのでしょうか。ネガティブな側面を見れば、確かにそう言える事例もあります。
その最たる例が、剛竜馬選手の一件でしょう。
数々のトラブルにより団体からのオファーは激減し、晩年は国際プロレスプロモーションなどの限られたリングにしか居場所がなくなりました。
孤独なフェードアウト
結局、金銭問題や体調不良により契約解除。新日本プロレスへの再々参戦を訴え続けましたが、団体の路線変更も重なり、マット界からフェードアウトしてしまいます。
2001年には引退試合が組まれたものの、本人が会場入りを拒否。主役不在のままテンカウントが鳴るという、前代未聞の結末となりました。
衝撃の逮捕と晩年
後年、窃盗容疑での逮捕や私生活のスキャンダルが東スポで報じられ、かつてのライバルである藤波辰爾選手に「ライバルと言われたら気分が悪い」とまで言わしめました。
2009年の生涯最後の試合では、かつての筋肉は見る影もなく、ただ立っているのが精一杯という痛々しい姿だったと言います。
映画と重なる悲劇
その直後、剛選手は交通事故による傷がもとで、53歳の若さで敗血症により急逝しました。
この年、ミッキー・ローク主演の映画『レスラー』が日本で公開されています。
かつての栄光にすがり、ボロボロになりながらリングに上がる主人公の姿と剛選手を重ねた私は、複雑な心境になった事を今でも覚えています。
磨き抜かれた一撃の重み
かつてのスターが無理を押して闘う姿は時に残酷です。
しかし一方で、藤波選手や藤原喜明選手のように、70代を目前にしても驚異的な動きと技術を見せ続ける「あり方」もあります。
彼らは技の数を絞る代わりに、一撃の精度を極限まで高めています。若い頃には到達できなかった表現力が、今の彼らには備わっているのです。
心が紡ぐ不滅の闘い
肉体が滅びゆく中で、それでもリングに上がろうとするのは、理屈ではなく「心」がプロレスという「闘い」を求めているからです。
バリバリの現役トップとレジェンドを、同じ物差しで比較することに意味はありません。
私たちが目撃しているのは、単なるスポーツの勝敗ではなく、一人の人間が人生という名のリングで最後まで足掻き、輝こうとする魂の軌跡なのです。
キャンバスに刻まれる物語
プロレスラーの数だけ、キャンバスに刻まれる物語があります。
たとえスポットライトが当たらない場所であっても、己の「あり方」を貫き通すその姿は、観客の心に永遠のカウントダウンを刻み続けることでしょう。
人生という名の無制限一本勝負、そのゴングは私たちが諦めない限り、決して鳴り止むことはないのです。
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