プロレス的発想の転換のすすめ(92)「やる側」と「見る側」の距離
表現者への誘い
長い間プロレスに関わっていると、いわゆるプロレスを「やる側」に誘われることが一度や二度ではありませんでした。
今回は、この「やる側」と「見る側」の間にある距離についてお話しします。
この場合の「やる側」とは、何もプロレスラーだけを指すわけではありません。
闘いはチームプレイ
プロレスというひとつの闘いを成立させるには、裏方、リングアナ、運営、マスコミなど、多種多様な人間が携わっています。
年齢や体力で選手が無理だとしても、他の関わり方はいくらでもあるのです。
プロレスが個人競技ではなく「チームプレイ」だといわれるゆえんのひとつでしょう。
私は一ファンでいたい
しかし、ことプロレスに関しては、私は自分のわがままで「あくまで一ファン」としての関わり方を貫いています。
その最大の理由は、やはり「お金」です。
プロレス界で起きる揉め事の多くは、お金にまつわる問題です。あるいは「嫉妬」でしょうか。
運営に潜む厳しさ
対価が発生する以上、プロレスにはプロ競技としての厳しさが存在します。
と同時に「面倒くささ」も発生するもので、これは選手でなくても同様です。
アマチュア団体には無料のスタイルもありますが、たとえ無料で見せるとしても、タダで運営できるわけではありません。
避けられぬ揉め事
会場の借用や練習場所の確保など、出ていくお金はゼロではありません。
一人なら自己負担で済みますが、プロレスは一人ではできません。
数人で集まり、負担について話し合う。
この時点で、すでに揉め事の火種がばらまかれているのです。
業界特有の人間関係
お金や嫉妬に加え、私が積極的に関わりたくない大きな理由が、特有の「人間関係のややこしさ」です。
特にこの業界には、外部に漏らしてはならない約束事が多く存在します。
隠語に代表される「村社会的約束事」が多いのは、組織としてあまり感心できません。
技術の継承への願い
相手に怪我をさせない工夫などの技術面は、もっと解禁されてもよいのではないか。
これが私の主観です。しかし、団体や組織によって考え方は異なるため、一概に非難はできません。
ただ、技術が口伝ではなく、正しい形で後世に伝えられてほしいと願う私には、閉鎖的に映るのです。
観戦の道を突き詰める
「見ているだけではつまらないから、やってみたい」と思うのは自然な心理です。
それが高じて実際プロになった選手もたくさんいます。
しかし、私は「やる」より「見る」ことを突き詰めたくなりました。
ファンとしては変わり種で偏屈な楽しみ方かもしれませんが、リングに上がる自分に憧れを持てなかった以上、仕方がありません。
ロープが隔てる境界線
突き詰めれば「自分には声援を浴びる資格がない」という心理的障壁に行き当たります。
自分を受け入れられている今でも、リング上の自分の姿は想像できません。
見る側とやる側の距離感は、三本ロープで区切られた四方のキャンバスの「中と外」という関係が、ちょうどいいのです。
求められる役割の苦悩
組織の暗黙の了解に縛られず、自由に渡り歩ける「一ファン」の立ち位置は非常に心地よいものです。
また「やる側」になれば、自分が見たいプロレスよりも、お客さんが見たいプロレスを優先せねばなりません。
客席がある前提で成り立つ以上、これは避けて通れない宿命です。
理想と現実の深い乖離
プロレスという表現は、演者のエゴと観客の欲望がぶつかり合う特殊な空間です。
作り手の理想と、大衆が求める最大公約数の熱狂――。
現代の情報社会において、自分の中で見たいプロレスとお客さんが求めているプロレスとの乖離は年々酷くなってきています。
その心理的な歪みと、理想を捨てきれないプロレスへの執着が混ざり合い、私は今日もリングの外側に留まり続けているのです。
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