私的プロレススーパースター烈伝(104)大仁田厚
苦労の多い幼少期
今回は涙のカリスマ・大仁田厚選手のお話です。
大仁田さんは長崎県の裕福な家庭に育ちますが、両親が離婚し、父親に引き取られますが親の事業不振などもあって、苦労の多い幼少期を過ごしました。
日本一周徒歩旅行
中学を卒業したのち、日本一周徒歩旅行を敢行しますが、当時からプロデュース能力に長けていたのか、自ら新聞社に売り込み取材を受けています。
また、過酷な徒歩により運動靴が傷んだ際は、シューズ会社を訪問しスポンサーの依頼をしていたそうです。
この会社の温情により新しい運動靴を頂戴しているあたりは商才を受けついでいることを伺わせます。
実家が火事に
大仁田さんは長崎県庁前から神戸までたどり着いたものの、所持金が尽きたため日雇い労働を始めます。
その最中、実家が火事に見舞われ長崎に戻ることになり、日本一周徒歩旅行を断念します。
若手三羽烏
1973年、15歳で全日本プロレスに新弟子1号として入門し、同期の渕正信さん、ハル薗田さんらとともに、「若手三羽烏」と呼ばれました。
ジャイアント馬場さんの付き人を経て、1981年より海外修行へでます。ヨーロッパを経て、プエルトリコへ転戦し、テリー・ファンクさんの助けをかり、アメリカへ移動します。
NWAジュニア戴冠
この当時渕正信さんとタッグを組み、AWA南部タッグ王座を争うなど徐々に頭角を現します。
1982年、ノースカロライナ州で、テリー・ファンクさんの推薦を得てNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦します。
大仁田さんは対チャボ・ゲレロ戦に勝利し、チャンピオンの座に就きました。
初代タイガーと
メキシコ遠征をおこなった後、帰国しますが、当時初代タイガーマスク選手が一世を風靡していた日本マット界のジュニアヘビー級で、大仁田選手はファイトスタイルを含めて苦戦を強いられます。
この時代の試合をみると慣れない空中戦にも果敢に挑む大仁田選手の姿がみてとれます。
また、最近の記事では当時初代タイガーマスク選手を比べられる事への苦悩を語っています。
全日引退
1983年、左膝蓋骨粉砕骨折の大怪我を負い、これが原因で1985年1月、後楽園ホールでプロレスラーを引退します。
全日本プロレス引退後は、タレント、事業を行うも振るわず、宅急便配達員や土木作業員として生計を立てていました。
FMW設立
転機が訪れたのは、ジャパン女子プロレスコーチに就任し、グラン浜田戦で復帰した後でした。
手元にあった5万円と、人に借りた2万円を足してプロレス団体FMWを設立。
1989年に名古屋市露橋スポーツセンターで旗揚げ戦を行いました。
インディの台頭
1990年8月4日には、自ら考案した「ノーロープ有刺鉄線電流爆破」デスマッチを汐留で行い、その後は電流爆破によるデスマッチ路線を突き進みました。
このFMWの成功をもって日本のプロレス界では「メジャー」「インディ」という呼び方が定着しました。
生き方をかえた
1993年九州巡業中に鹿児島で倒れ救急搬送。敗血症にかかり助かる見込みは30%といわれる中、生還しています。この鹿児島大会の翌日に開催された北九州大会が私のFMW初観戦になりました。
ICUで治療中のこの時、臨死体験をしていたそうです。死の淵からの生還は、後の大仁田さんの「生きる」ことへの考え方を大きく変えることになります。
学歴コンプレックス
1995年5月5日、川崎球場で2度目の引退。しかし復帰してFMWのリングに上がり続けるも、1997年に自分が興したFMWから追放されました。
大仁田さんは中卒でプロレス界に入ったため、学歴に対するコンプレックスもあった。「今からでも遅くない」と一念発起して40歳で高校入学。卒業後の2001年、明治大学に入学し、2005年に卒業しています。
参議院議員へ
同年、第19回参議院議員選挙比例区にて46万票で初当選し、議員にもなっています。
2012年、義父の介護の経験から、ホームヘルパー2級を取得しています。
デイサービスを経営し、自らも体操を担当し、2015年、「プロレス地方創生!いじめ撲滅!」をテーマに、全国で電流爆破の試合を行いました。
7度目の引退
2017年8月5日、CZW参戦でアメリカ初の電流爆破マッチを敢行しました。
2017年10月31日、「大仁田厚ファイナル後楽園ホール大会」で7年ぶり7度目の引退をします。
7度目の復帰
しかし2018年4月、佐賀県神埼市長選挙に出馬するも惜敗し、拠点を故郷の九州に移すと、2018年10月28日、プロレスリングA-TEAM鶴見青果市場大会において、7度目の復帰を果たします。
2019年4月14日には、プロレスラーデビュー45周年を迎えました。
アメリカでの電流爆破
2021年7月4日、新団体「FMWE(FMW-explosion)」を旗揚げし、電流爆破に特化した大会を行っています。
同年10月31日、アメリカ・ニュージャージー州トレントン球場で、共同開催により長年の夢だったオリジナルの電流爆破の試合を成功させています。
炎の稲妻
プロレスラーとして活動する他に、企業、学校をはじめとする講演会の講師として登壇し、「こんな生き方があるんだよ」「中小企業だって個性を活かせば伸びていける!」と熱いメッセージを送り続けています。
2024年4月14日にはプロレスラーデビュー50周年を迎えます。
全日本時代の大仁田さんは、佐山タイガーの4次元殺法のような華麗さ、アクロバティックさはないものの、無骨で荒々しく感情剥き出しなスタイルから「炎の稲妻」と呼ばれ人気を博しました。
人生は不思議
全日第4の男として注目されましたが、1983年4月20日、東京都体育館でのヘクター・ゲレロとの防衛戦に勝利した後の終了後、リングを飛び降りた際に着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまいます。
これが左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場、医師からは再起不能を宣告されてしまいました。
もし、この時の怪我がなかったら大仁田さんの半生は全く違うものになっていたので、人生というのは不思議なものだなと思うのです。