【プロレス】私的プロレススーパースター烈伝(107)坂口征夫

[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝

私的プロレススーパースター烈伝(107)坂口征夫

 

今回はDDTの坂口征夫選手についてのお話です。

坂口選手は、プロレスラー、総合格闘家、土木施工管理技師、建設会社経営者として活躍している多才な人物です。

父は元プロレスラーの坂口征二、弟は俳優の坂口憲二という一家に生まれましたが、自身は高校卒業後に建設会社に就職し、土木作業員として働き始めました。

 

プロレスラーを目指していたものの、身長が低く断念したという経緯があります。

坂口選手は、著名な父・弟と比較され、コンプレックスだったと語っています。

 

2024年1月15日に行われた会見でも「坂口という名前が嫌で嫌でしょうがなかった。その呪縛から解いてくれたのがDDT。リング上でパンスト被ったり泥酔したり。思い出がいっぱい、一冊の本になるくらい(笑)」と語っています。

坂口選手は、27歳で空手を始め、東都空手道選手権で準優勝、ルーキーチャレンジカップで優勝しています。

 

そして30歳の時に、柔道時代の先輩にあたるGRABAKAの菊田早苗に相談し、総合格闘家になることを決意しました。

2012年3月からはプロレスのリングに上がるようになり、DDTに定期参戦を始め
ます。

 

2014年3月2日、梅田ナスキーホール大会でKUDO選手、マサ高梨選手からのユニット結成の誘いを快諾し、後にユニット名が「酒呑童子」と決定します。

5月4日、DDT仙台大会ではKO-D6人タッグ王座に酒呑童子で挑戦します。

 

坂口選手自らがPKで勝利し、酒呑童子が第10代王者となりました。

この時、坂口選手が乾杯の音頭をとり、リング上で酒盛りを行っています。

 

10月1日、DDTドラマチック総選挙にて17位で選抜入りします。

直後にリング上で「自分の最後の格闘家人生をこのDDTで終わらせたいです。自分をDDTの所属の選手にしてください。」と、高木三四郎大社長に直訴します。

 

大社長は即答でOKし、坂口選手は、晴れてDDT所属となります。

2020年1月には武闘派ユニット・Eruptionを結成します。

2021年11月には岡谷英樹選手とのコンビでアジアタッグ王座を奪取し、史上初の父との“親子二代戴冠”を達成しました。

 

坂口選手は総合格闘技をベースとした武骨なファイトスタイルで、DDTの中では異質な存在として活躍しました。

打撃やサブミッションで相手を追い込む姿は、男気溢れる発言や姿勢とともに、DDT特有のエンタメ部分にも振り切る姿勢が、ファンの支持を集め、DDTには欠かせない選手になっていきました。

 

しかし、2022年1月には神奈川・鶴見青果市場で同王座から陥落し、Eruption解散を宣言しました。

そして1月15日には2月7日に開催されるDDT新宿FACE大会を以って引退することを発表したのです。

 

坂口選手は、「引退ロードっていう大それたものは必要ない。みんな笑って終わってもらえれば。止まる自分を見るんじゃなくて、これから出てくる人間を見て欲しい」と語っています。

坂口選手といえば個人的には、東京の新宿FACEで観戦したDDTビアガーデンプロレスの酒呑童子DAYが一番印象に残っています。

 

「闘うビアガーデン2017~酒呑童子DAY~」は2017年8月4日(金)に開催されたDDT名物ビアガーデンプロレスの一環で、坂口選手は分身のユキオ・サンローランをはじめ、第一試合ではユキオコレクションA.T.としても試合を行いました。

メインでは一日限定復活したユニット「モンスターアーミー」相手に、最後は坂口選手の「神の右膝」が炸裂し、酒呑童子が無事勝利しました。

 

最後は、森高千里さんの「気分爽快」にのせて、出場選手が全員揃って乾杯して大会は終了したのですが、最初から最後まで満足感の高い大会で、いまだに記憶に残っています。

坂口選手は、プロレス界に足を踏み入れたときも、なんで最初からプロレスをやらなかったんだろうと思われたほどの才能と魅力を持つ選手だったと思います。

 

幼い頃からプロレスに親しみ、新日本道場にも度々遊びに行っていたそうですし、私は当初不思議に思っていました。

そこには2世ならではの苦悩もあったのでしょう。

 

しかし、結果的に坂口選手は、パンスト被ったり美威獅鬼軍のユキオ・サンローランや、一連の平田一喜選手との絡みなど、DDTの強さと怖さと共に楽しいも担当するなど、振り幅のデカさが魅力的なプロレスラーになりました。

実際、その漢気あふれる人柄は誰からも好かれ、同僚レスラー、ファン、関係者をはじめ、坂口選手の事を悪くいう人はいません。

 

坂口選手は、2011年3月、東日本大震災の被災地である茨城県の水道管復旧工事を請け負い赴きましたが、急遽福島県小名浜地区での工事を依頼され快諾、5月までに地域全ての水道管復旧工事に従事しています。

この時、東日本大震災でいわきの復旧工事をして下さったことをファンの方が感謝したら…

 

「親御さんは大丈夫でしたか?俺は当たり前のことしただけ」

と照れながら話してくれたそうです。

 

また、別なファンの方は、坂口さんの会社に工事に行った時、仕事中なのに気軽にサインして頂き、後日改めてちゃんとした色紙に書いたサインを送って頂いた時には年甲斐もなく泣いてしまったと綴られています。

私も時折会場でサインしていただきそのたびに「どうもありがとうございました」と言ってくださる坂口選手の大ファンでした。

 

リング上ではやるかやられるか、という雰囲気を纏いながら、真面目な顔をして実はゲラだというギャップにやられたファンも多かったでしょう。

2013年、まだ坂口選手がDDTに入る前にレジェンドプロレスで、対戦経験がある獣神サンダー・ライガーさんは、当時の試合後も「坂口って名前を名乗るなよ。ウチの若手たちと、イチからやれよ!」と怒りを隠さなかったそうです。

 

これが発奮材料になったかは定かではありませんが、その後のDDTでの活躍をみれば、坂口という名前の呪縛をふりきり、坂口征夫というひとりのレスラー像を確立した事は特筆すべきだと私は思っています。

 

坂口選手は。自分のペースで、自分の信念で、自分の生きざまでプロレスをやり抜きました。

その姿は、多くの人に感動と勇気を与えてきました。

 

坂口選手は男色ディーノ選手に対してXで「先輩、ありがとうございました。どこまで、近づけたかわかりませんが、自分なりに背中を追わせいただきました。最後ですが、俺はピーターパンになれましたかね?」と問うています。

この答えとしてディーノ選手は「ん?たまに変なこと言うんだよなあ征夫ちゃんは。征夫ちゃんがDDTを選んでリングに上がった時からずっとピーターパンだよ?
リングの上で自分の人生に向き合って、見てる人にとっての何かになろうとしてた。ウェンディが喜ぶならバカもやるし誰相手でも戦う。そんなのピーターパンそのものじゃん。」と返しています。

 

坂口選手は、プロレス界にとって、かけがえのない存在だったのです。そんな存在がいなくなるのは、正直寂しい思いでいっぱいです。

しかし、坂口選手がいわれたように「止まる自分を見るんじゃなくて、これから出てくる人間を見て欲しい」という言葉のとおり、坂口イズムを受け継いだ選手の活躍を期待したいですね。

 

さて、事実上プロレスラー坂口征夫選手の介錯人に指名されたHARASHIMA選手はXのポストで「

指名されました

いろいろな思いが有り過ぎるよ

…最後までガッチリと⭐」とポストしています。

 

当日の試合はレッスルユニバースでしっかり見届けたいと思います。

坂口選手、本当に今までありがとうございました!

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