プロレス的発想の転換のすすめ(60)生かされる意味と闘い
当たり前の生への疑問
生きていて当たり前。そう思えることは、ある意味で幸せなことなのかもしれません。 今回は「生かされている意味とプロレス」についてお話しします。
抗がん剤治療で入院すると、嫌でも色んなことを考えます。
とはいえ、私の死生観を大きく変えたのは、がんそのものよりも「友人の死」でした。
友の死が変えた死生観
彼が先に旅立ち、なぜ私だけが残されたのか。
苦しい抗がん剤治療を続けてまで生き永らえているのは、どうしてなのか。
考えに考え抜きました。 今でこそ「生かされている」という言葉を使いますが、実のところ若い時分には「生きていて当たり前」という傲慢なまでの感覚しかありませんでした。
隣り合わせの生と死
幼い頃からさまざまな病気を経験しましたが、この根拠のない自信だけは常にありました。
その反面、自分の存在を世界から消し去りたいという衝動も抱えており、それが過去のさまざまな問題へと繋がっていきました。
「生きたい」と「死にたい」を常に隣り合わせにしたまま、私は人生の大半を過ごしてきたのです。
生きる軸が「人からすごいと思われたい」という承認欲求にあったため、今振り返ると生き方が大きくブレていました。
他者承認という名の迷路
「すごいと思われたい」という思いの根底には、常に他者の視点が存在します。
そこには「自分はどうありたいか」という自らの視点が欠落していました。
だからこそ、自分より優れた人間が現れたり、周りから認められなかったりすると、激しい劣等感に苛まれます。
軸がブレているため、いつまでたっても自分に自信が持てないのです。
リングに立つことの重み
私は大のプロレスファンで長年観戦を続けていますが、不思議と一度も「リングに立ちたい」「人前で目立ちたい」と思ったことがありません。
数年前、がむしゃらプロレス運営部からのご指名で、トゥエルノ・ゲレーロ選手対YASU選手のタイトルマッチ宣言をさせていただいたことがあります。
しかし、その際の場違い感は半端ではなく、一刻も早くリングを降りたい一心だったことを今でも思い出します。
闘いの神聖さと己の未熟
後日、知人から「チャンピオンベルトを四方へ掲げるのが早すぎる」と指摘されましたが、それほどまでにあの神聖な「闘い」の場に居続けることが心苦しかったのです。
自分もすごいと思われたい虚栄心と、「自分より適任が他にいる」という客観的な事実が激しく拮抗し、心の中はモヤモヤとした霧に包まれていました。
しかし、がんを患ってからというもの「自分に自信を持てないまま人生を終えていいのか?」という思いが、日に日に強まっていきました。
遺された時間での自己研鑽
友人の急逝以降、「自分もいつ死ぬかわからない」という実感が、恐怖ではなく覚悟として定着しました。
そうなると、自身の人生にも何らかの意味があり、大きな力によって「生かされてきた」のかもしれないと思い至るようになったのです。
以前私は前職を離れ、望まずしてフリーランス(という名の無職)の道を歩むことになりました。
魂を燃やす最後の闘い
普通、仕事を失い収入源が絶たれれば、社会的に抹殺されたも同然だと感じるでしょう。
しかし、それでも私は大病を患いながら、今もこうして生きています。
プロレスラーが満身創痍の体を引きずりながらも、カウント2.9で肩を上げるように、私もまた、この人生という名のリングで「生かされている意味」を探し続けています。
自身の命を削りながら観客に勇気を与えるプロレスラーの姿は、今の私の闘病生活と重なります。
彼らがリング上で見せる不屈の精神こそが、私が生かされている理由を見つけるための光です。
遺された時間で、自分ができる社会への貢献は何なのか。
自問自答を繰り返しながら、最期のゴングが鳴るその瞬間まで、私は自分自身の「闘い」を全うしたいと思っています。
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