プロレス的発想の転換のすすめ(38)恐怖心と闘いの本質
臆病だった幼少期
今回は「怖さ」についてお話しします。
怖さというのは、あった方が良いのでしょうか?それともない方が良いのでしょうか?
かつて私は、この「怖さ」をなくしたいと本気で考えていました。
理由は、幼少期に「男のくせに怖がりだ」と揶揄された体験があるからです。
得てして臆病者は「ビビり」などと言われ、日常生活では高く評価されません。
少なくとも、褒められることは少ないでしょう。ましてや昭和の時代は「男とはかくあるべき」「女とはかくあるべき」という固定観念が今よりずっと厳しかった時代ですからね。
勇敢さが尊ばれる
反対に「怖いもの知らず」や「勇敢」など、恐怖に対して強気で立ち向かう人は、賞賛されやすい傾向にあると私は思います。
現代でも、こうした傾向は少なからず残っているのではないでしょうか。
さて、プロレスラーの場合、「怖がり」ではなかなか務まりません。
時に果敢に攻めていかなければ、技を受けるだけではお客さんの印象にも残りません。
恐怖は自分を守る
しかし、ここであなたにもう一度考えてほしいのです。
果たして「怖さ」とは、いかなる時も乗り越えたり克服したりすべきものなのでしょうか。また、なくしてしまっていいものなのでしょうか。
怖さがあるからこそ、自分の身を守れます。
怖さはある意味、危険を知らせてくれる信号のようなものです。
その信号を無視すれば、最悪の事故が起こります。プロレスの闘いは、常にその危険と隣り合わせで日夜行われています。
うまくいけば大喝采を浴びますが、失敗すれば命に関わる事態になりかねません。
危険に挑む姿の光
しかしながら、危険と知りながら身を投じる姿に、見ている我々が興奮し熱狂しているのもまた事実です。
では、怖さはどう扱えばいいのでしょうか。
一般人である我々は、自分の怖さと向き合い、その程度を緩めたり加減を調節したりして生きています。
普段は無意識に行っていますが、真摯に向き合い、目をそらさずに「怖さがあっていい」と認めた上で、今自分がどうしたいのかを理解する必要があります。
向き合う強靭な心
しかし、人間は怖いものとは向き合いたくないのが普通です。
それを分かった上で「向き合え」というのは、無理難題に等しいでしょう。怖さと向き合うには、かなり強靭な精神力を必要とします。
自分自身と向き合い続けてつくづく思うのは、本当の強い人とは「自分の問題から逃げない人」なのだということです。
真のスターの条件
そんな自分の問題から逃げない、怖さを認めたプロレスラーこそ、新しい時代のスーパースターとして求められているのではないかと私は考えています。
だからこそ、むやみやたらに命を投げ出すような行為を繰り返すだけの人間は、真の意味でプロレスラーとは言えないと思っています。
そうは言っても、デスマッチや空中戦を今のプロレスから切り離すことはできません。私もそこは悩ましく思っています。
闘いの軸を信じて
要はアイテムや試合形式に固執するのではなく、「闘いを見せている」という軸が選手の中でブレてさえいなければ、観客は感動できると考えています。
プロレスラーという職業は、人並み外れた恐怖を抱えながら、それを抱きしめてリングに上がる仕事です。怖さを知るからこそ、相手の痛みも分かり、自分を守る術も磨かれるのです。
恐怖は必要なもの
結局のところ、怖さというのはあった方が良いのでしょうか?それともなかった方が良いのでしょうか?
極限の闘いを見せるプロレスの世界においても、恐怖を完全に消し去るのではなく、それとどう共存し、超えていくかが重要視されます。
私たちもプロレスの闘いを通じて、恐怖を否定せず、正しく恐れることの大切さを学べるのかもしれません。
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