入場テーマ曲が珍しかった時代
2016年も残りわずかとなりました。年末ラストのプロレス的音楽徒然草は「聖者の行進」をとりあげます。
この曲自体はもちろんプロレス専用に作られたわけではありません。
しかし、とあるレスラーの入場のために、生演奏された記録ならあります。
それは1974年蔵前国技館で行われたNWFヘビー級戦、アントニオ猪木対ストロング小林の闘いでのこと。当時はまだプロレスラーが入場テーマ曲付きで入場することは大変珍しい時代でした。
生バンドの演奏
ミル・マスカラスは例外として、よほどのビッグマッチでなければ流れなかった入場テーマ曲が、生バンドの演奏で流されたということが、この試合の重要性を物語っています。
小林さんは団体の屋台骨として順調に活躍していた矢先、「’74パイオニア・シリーズ」最終戦当日である1974年2月1日に国際プロレスへ辞表を提出します。
これは当時マッチメーカーだったグレート草津さんとの確執があったといわれています。
東京スポーツ所属に
74年2月13日、小林さんはフリー宣言してジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんへの挑戦を表明し、IWA王座を返上して国際プロレスを退団します。
小林さんの国際プロレス退団直後に新日本プロレスはすぐさま動き、新間寿営業本部長がが極秘交渉を開始した一方で、全日本プロレスも藤澤久雄・月刊プロレス編集長に依頼して、新日本参戦を阻止するよう動いています。
これを受けて、同年3月8日には国際プロレスの吉原社長が会見上で小林さんの契約違反を主張しますが、結局東京スポーツ新聞社が仲介に入り、東京スポーツが1000万円を国際プロレスに支払うことで和解しました。
このことで一時的に小林さんは東京スポーツ所属のレスラーとなったのです。
チケットを買えずに帰った
そして74年3月19日、蔵前国技館において猪木さんの保持していたNWF世界ヘビー級王座に挑戦。日本人選手同士・団体エース同士のタイトルマッチとして、大きな話題を呼びました。
実況の船橋アナウンサーが「3500人ものお客様がチケットを買えずに帰った」と繰り返すほどの盛況で、蔵前国技館は超満員札止め。
「力道山×木村正彦戦以来20年ぶりの大物日本人対決」と銘打たれたこの試合は、猪木さんを流血に追い込んだ小林さんが最後はジャーマン・スープレックス・ホールドに屈しています。
このときのジャーマンは猪木さんがブリッジの際に首だけで二人分の体重を支え、レスラー人生の中で最も危険かつ美しい角度で決まったといわれているほどの芸術品でした。
自慢の怪力と、確かなレスリング
とまあこのように壮絶な死闘だったわけで、当時10歳の私が鮮烈に覚えているくらいこの時のジャーマンはすごかったのです。
なおこのあと行われた再戦でも小林さんは猪木さんに破れ、WWWF遠征を経て新日に入団しますが、正直レスラーとしてのピークはこの時点がもっともすごかったと私は思います。実際猪木さんの数々のテクニックに対して小林さんは自慢の怪力と、ヒロ・マツダさんに師事した確かなレスリングで何度も猪木さんを窮地に追い込んでいきます。
この試合展開は、今結果がわかってみてみても非常に手に汗握ります。まさにリング上で死闘をくりひろげた2人の聖者は、歴史にその名を確かに刻んだのでした。
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