[プロレスブログ] プロレス的発想の転換のすすめ(24)プロレスという名の多面的対話

[プロレスブログ] プロレス的発想の転換のすすめ

プロレス的発想の転換のすすめ(24)プロレスという名の多面的対話

はじめに:コミュニケーションの真髄はどこにあるのか

「コミュニケーション」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。

一般的には、自分の気持ちや意見を言葉に乗せて相手に伝え、また相手からの言葉を受け取る、相互的な情報のやり取りを指します。

しかし、現代社会において言葉はあまりに溢れかえり、時としてその真実味を失っているようにも感じられます。

一方的にまくし立てるのではなく、双方向で「伝え、伝え返される」こと。

この本質を極限まで突き詰めると、実は一つのエンターテインメントに突き当たります。それが「プロレス」です。

プロレスとは、単なる格闘技の枠を超えた、究極のコミュニケーションの形態である――。私はそう確信しています。

なぜなら、リング上で行われていることは、肉体を通じた魂の対話そのものだからです。

多面的なコミュニケーションとしての「闘い」

プロレスが他のスポーツや対話と決定的に異なるのは、そのコミュニケーションが「双方向」でありながら、同時に「多面的」であるという点です。

通常のコミュニケーションは、AさんとBさんの二者間で行われます。

しかし、プロレスという「闘い」においては、選手同士のやり取りを第三者である「観客」に見せているという前提が不可欠です。

もし、選手同士の双方向だけの自己満足で終わってしまえば、それはただの「プロレスごっこ」に過ぎません。

プロレスがコミュニケーションツールとして優れているのは、以下の三方向のベクトルが同時に存在しているからです。

選手対選手では、技の攻防を通じた、互いの意地の張り合いと信頼を見せていきます。

選手対観客では、リング上の熱量を客席に届け、その反応を糧にします。

観客対観客では、 会場全体の熱狂が伝播し、一体感が生まれます。

この「見られていること」を前提とした、多層的なメッセージのやり取りこそが、プロレスという「闘い」の優位性なのです。

「やっている人間にしかわからない」という内輪ノリに陥ることなく、常に第三者の視点を意識し、そこに感情を叩き込む。

この構造こそが、プロレスを唯一無二の表現活動に昇華させています。

言葉を超越する「肉体の言語」

人間同士の心の交流を、視覚的に表現するのは非常に難しい作業です。

映画やドラマの世界では、登場人物の心情を描写するために、長時間のモノローグや繊細な表情のアップ、特別な演出に時間を割くことが少なくありません。

しかし、プロレスは違います。試合という限られた時間の中に、出会い、衝突、葛藤、そして和解や決別といった全ての人間ドラマが凝縮されています。

理想を言えば、マイクパフォーマンスという「言葉」よりも、試合中の「攻防」が雄弁であること。それこそがプロレスの美学と言えるでしょう。

例えば、WWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)に代表されるようなスポーツエンターテインメントの世界では、「スキット」と呼ばれるちょっとしたお芝居や寸劇が多用されます。

これらは物語を分かりやすくする効果がありますが、一方で英語圏以外のファンにはニュアンスが伝わりにくいという言語の壁が存在します。

かつての日本のプロレスシーンにおいて、レスラーがマイクを持つことが制限されていた時期があったのは、ある意味でこの「言語の壁」を意識していたからかもしれません。

言語に頼らず、己の体一つですべてを語り尽くせること。それこそが、世界を股に掛けて活躍する名選手の絶対条件だったのです。

現代では、喋れて、なおかつ試合もできることが名レスラーの条件になりつつあります。

しかし、本来プロレスが持っている「言葉に頼らず肉体でメッセージを伝える」という特質を忘れてはなりません。

言葉はあくまで、肉体が語る物語を補うための補助役に過ぎないのです。

具体的事例:なぜ「技」は言葉よりも響くのか

具体的な事例を挙げてみましょう。

例えば、長年ライバル関係にある二人のレスラーが、数年ぶりにリングで対峙したとします。

そこで彼らが何を語るかよりも、最初の一太刀――例えば強烈なエルボーの一発――にどれだけの重みがあるか。

その一撃に「お前を待っていたぞ」「この数年、俺はこれだけ強くなった」というメッセージが込められているとき、観客は言葉以上の衝撃を受けます。

あるいは、相手の得意技をあえて受けて立ち、仁王立ちで耐えてみせる仕草。これは「お前のすべてを受け止めた上で、俺は負けない」という、極めて濃密なコミュニケーションです。

日常生活で、相手の意見を真っ向から受け止めた上で、自分の意志を貫き通すような場面はそうそうありません。

肉体と肉体がぶつかり合うというコミュニケーションは、非日常だからこそ、観る者の本能に直接訴えかける力を持っています。

観客の数だけ存在する「物語」

プロレスという「闘い」の素晴らしいところは、会場にいる人間すべてにそれぞれの人生(ドラマ)があり、リング上で紡がれるストーリーと化学反応を起こして、観客の人数分だけ異なる物語を生み出すパワーがあることです。

私が書き記しているプロレス観戦記も、実際に行われた「闘い」の中で生まれた何百分の一、何万分の一のドラマに過ぎません。

しかし、そうした個人の感動が数百、数千、数万と集まったとき、そこには巨大なエネルギーの渦が発生します。

私が自身の物語を紡ぐ中で気づくのは、やはり「誰が何を言ったか」という記憶よりも、試合中のちょっとした意地の張り合いや、倒れても這い上がるその姿といった「言葉以外のメッセージ」を受け取った時の方が、より強く、より深く印象に残っているということです。

これは、私たちが日常で経験する言語的なやり取りがいかに表面的なものであるかを、逆説的に示しているのかもしれません。

スキットやマイクパフォーマンスによる演出を否定するつもりはありませんし、私もそれを楽しむ一人です。

しかし、本来は「スキットがなくても、プロレスはプロレスとして成立する」という本質を、送り手である選手も、受け手である観客も、心のどこかに留めておく必要があるのではないでしょうか。

コミュニケーションの未来とプロレスの役割

現代社会はSNSの普及により、誰もが発信者となれる時代です。

しかし、その多くは短絡的な言葉の応酬であり、真の意味での「肉体性を伴った対話」は減少しています。

プロレスという「闘い」は、そんな希薄な現代のコミュニケーションに対する一つのアンチテーゼでもあります。

痛みを分かち合い、全力でぶつかり合い、そのプロセスを第三者にさらけ出す。この不器用で、しかし誠実な対話の形こそ、私たちが今、最も必要としているものかもしれません。

「言葉で伝えれば済むこと」を、あえて肉体を使って、時間をかけて、汗を流しながら表現する。この無駄とも思えるプロセスの中にこそ、人間性の真髄が宿っています。

おわりに:多様な「闘い」を楽しもう

もちろん、プロレスの楽しみ方は千差万別です。

派手な演出に酔いしれるのも良し、緻密なグラウンドテクニックに唸るのも良し、選手のキャラクターに感情移入するのも良いでしょう。

しかし、もしあなたが次にプロレスという「闘い」を観る機会があれば、少しだけ「コミュニケーション」という視点を意識してみてください。

選手がなぜその技を選んだのか、なぜそのタイミングで立ち上がったのか。そこには必ず、相手選手への、そしてあなたへの「メッセージ」が込められています。

言葉を超えた先にある、肉体と肉体の対話。その化学反応が生み出す無数の物語の中に、あなただけの真実を見つけ出してみてください。

そんな多種多様なプロレスの形を、これからも共に楽しんでいけたら、これほど素晴らしいことはありません。

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