今回は見て盗むお話です。上手くなりたければ教えてもらうのではなく、見て盗めとはよく聞く言葉です。
しかし、これは教える側が手を抜いていいという意味ではもちろんありません。あくまで教わる側の姿勢としてあるべき姿ではないか?と私は思います。
ただし、実は盗むだけではまだ不十分ではないか?とも最近は思い始めています。盗んで自分のものにした上で伝えられる、というところまで習得してはじめて教えられたことが身についたといえるでしょう。このような考えに至ったきっかけはやはり心理学でした。
今から40年近く前、アメリカ・カリフォルニア大学の若き天才、リチャード・パンドラー博士と、ジョン・グリンダー博士が、セラピーの分野で非常に有名だった「3人の天才」の手法を分析、体系化することによって開発されたNLPというセラピーがあります。
セラピーにおける「3人の天才」は、全く異なったアプローチを行っていましたが、それぞれが独創的で劇的な成果を出していたそうです。
この3人の天才セラピストが使う『ことばの使い方、非言語、コミュニケーション手法の使い方、無意識の活用の仕方』を科学的に分析し、体系化、実践的かつ汎用性のある方法論にまとめたものが神経言語プログラミング=NLPなのです。
セラピーやカウンセリングというのは、プロレス以上にニュアンスや佇まいという非言語の部分が大切にされています。
ですが、やりようによっては、その難易度が高い天才セラピストのアプローチさえ、体系化できるのです。時代的にも、もはや盗んで覚えるだけでなく、それを自分のものにした上で伝えられないと、繁栄はありません。天才のDNAや経験則に頼らず、理論化して体系化することで、NLPは言語を問わず世界中で使われています。
プロレスも確かにワールドワイドなジャンルですけど、教え方は旧態依然とした部分がかなりたくさんあります。それはそれで悪くはないのですが、より多くの方に伝えていくためには、体系化、理論化は避けらない問題だと私は考えてます。プロレス界の天才がその生命を終えた時、その技術も潰えてしまうようでは大きな損失ともいえます。
藤原喜明組長がカール・ゴッチ道場で教わった技術をノートに書き留めた「藤原ノート」はあまりにも有名ですが、プロレス界ではこうした教えが後世に残ることは稀といっていいでしょう。それだけにプロレス版NLPが世に現れたら、それはもう革命といっていいのではないかと私は思うのです。