1994年の青森・みちのく一人旅中編・いざ、青森へ!
実際に旅した記憶
前編では、青森に行くまでの過程をお話しました。中・後編では実際に旅した記憶を綴っていこうと思います。
1994年当時、営業マンだった私はお客さんから生命保険2件、がん保険に一件ほど加入してました。
それほど手取りは多くありませんでしたが、プロレスやアニメ以外に使う用途もなく、実家にお金いれてもなお、保険三件払える余裕はありました。
私に会いにきてくれた
とはいえ、生命保険は一つで十分だろうという事で、一件を解約して青森行きの試金にあてました。
当時、プレッシャー内でもそこそこ知名度があった私は、まず東京で一旦降りて、そこから寝台に乗り換えて、青森に行く計画をたてました。
すでに会報で告知していたせいか、東京駅ではたくさんの関東会員さんたちが私に会いにきてくれました。束の間でしたが、寝台に乗り換える時間を楽しくすごしたあと、私は青森行きの寝台に乗り換えました。
寝台列車の旅が必須
当時は、東北新幹線も仙台どまりで、青森に行くには寝台列車の旅が必須でした。
ところが、その寝台車はなんと3段ベッドでした。しかも私の席は3段目の1番上。少し寝返り打てば天井にぶつかるくらい狭かったのです。
そんな状態ですから、179センチある私には到底快適な旅とは言えず、まんじりとしないまま、気がついたら青森についてました。
温度計は30度
朝方は割と冷えていて、さすが北国だな、と思いましたが、だんだん日が昇るにつれてだんだん暑くなってきました。気がつけば温度計は30度を指しており、とてもではないけど、北国にきた実感は湧きませんでした。
青森の友人達と待ち合わせる夕方まではまだまだ時間がありました。とりあえず宿に荷物を置いて昼飯を食べにいくことにしました。
駅前には、当時まだいわゆる「捨て看」と呼ばれるプロレスのポスターが散見されました。
インディ団体の地方大会は
そのとき見たポスターは、新格闘プロレスのものだったんですが、下関には来ない団体が来ている青森を少し羨ましいと思いました。
94年だとインディ団体の地方大会はまだまだ珍しかった時代でした。
記憶が正しければ、この頃はまだ下関にきていたのは、男子プロレスなら、新日本もしくは全日本で、他にはぼちぼちFMWが来始めていたくらいでした。
それだけに、青森に新格闘プロレスが来ていたのは、余計印象に残ったんでしょうね。